大正時代まで東京の魚市場は日本橋にあった。東海道の起点となる橋から200メートルほど離れた昭和通りまで東西に流れる川沿いの北岸が魚市場、南岸が乾物問屋街だった。ところが1923年の関東大震災で焼け野原となり復興の過程で魚市場は築地に移転した。

 乾物問屋街も姿を消し、日本橋は卸売業から三越などが代表する小売業の街へと変貌。町並みが変わるなか、鰹(かつお)節や乾物の卸売業、八 木長本店(東京・中央)は魚河岸に隣接する一角で焼け落ちた店を再建した。「もっとも4間(1間は約1.8メートル)あった店の間口が震災後は2間半に なったけれど」と八木長兵衛社長は苦笑する。

 八木長は1737年、伊勢出身の初代長兵衛が日本橋小舟町に鰹節問屋「伊勢屋長兵衛」として創業した。幕藩体制が安定した17世紀後半から 18世紀前半、日本橋周辺には八木長に限らず伊勢商人が数多く進出した。紙問屋「小津清左衛門店」(現在の小津産業)や呉服店「越後屋」(三越)、同業の 鰹節問屋「伊勢屋伊兵衛」(にんべん)の創業もこの時期だ。

 伊勢商人が多くまぎらわしいため独特の呼び名が生まれた。「うちは最初『伊勢長』と呼ばれ、明治になって『八木長』に。にんべんさんは瀬戸物町にあったので祖父はよく『せともんちょう』と呼んでいた」と八木社長は解説する。

 その祖父、6代目長兵衛は安政の大地震があった1855年に生まれた。茨城から江戸に出て日本橋の別の鰹節問屋で丁稚(でっち)奉公をし、 年季明けのころ「傾いた店を引き受けないか」と声がかかった。それが今の八木長。4~5代目の時期、商いは振るわなかった。当時は鰹節のほか鮭(さけ)を 主力商品としていたが、その鮭の相場が乱高下して、しばしば大きな損を抱えたかららしい。

 若き6代目は赤字だらけの帳簿を見て「これはとても無理」と固辞したが、重ねての要請に「鰹節に商品を絞ること」と条件をつけ、5代目の婿 養子になった。主の座に就くと、魚河岸に近い日本橋室町に出店(現在の本店)するなど改革を次々に断行、店は再興した。その6代目は1923年2月、関東 大震災の7カ月前に亡くなった。

 「7代目の父は病弱で叔父と私の姉婿に当たる義兄が店を支えた」と八木社長は語る。自身は1950年に慶応大学経済学部を卒業。「商社マンになって大きなビジネスの世界を少しの間でも見たかった」が、寄り道は許されず、そのまま八木長に入社した。

 待っていたのは毎日の磨き作業だった。倉庫に保管している鰹節のカビを取り除くため、朝2~3時間天日に干した後、1本1本手にとって磨いていく。「夏の炎天下での作業は本当に重労働だった」と八木社長は振り返る。

 店主に何より必要なのは鰹節の目利き。見て触って一瞬で店の生命線である質を見分ける。「五感を使えと父によく言われた」と話す八木社長 は、机に腰掛け天板の下で鰹節を手にして触覚を鍛えた。現在扱う鰹節は鹿児島県産が中心。芸術家といっても過言ではない腕の良い職人が手掛ける。その多く はいまや高齢だが、最近では若く優秀な職人も育ってきている。

 83歳になる8代目は店の永続を願いつつ、「後継者は無理に決めたくない」とも言う。見聞を広める機会を許されなかった自分と同じ気持ちを子孫に強いたくない。そんな思いがあるからのようだ。


雨戸はすべて銅製
 関東大震災で全焼した八木長本店は3年後に 新築の建物に代わった。写真は1935年ごろの撮影。震災の教訓から雨戸はすべて銅製だった。見かけは重厚だが「子供でもガラガラと開けられるほど作りが よかった。昔の職人さんは良い仕事をしていた」と八木社長は話す。防災に配慮した同じ仕様の建物が周囲に建てられたが、東京大空襲で再び焼け落ちた。