Cosmic Dance -9ページ目

「自分を大切にするって、どういうこと?」



ってヒトが、実はとっても多いことに驚かされています。




運がいいのか、私は昔から自分に対しては真摯な方で(笑)

自分が良くなるためになら頑張れるし

嫌だなって思うことはしない方だったので

それが普通だと思っていたのだけど

じつはそれはかなりラッキーだったんだと

しみじみ思っています。





自分を大切にするって、例えば

ごはんをちゃんと美味しく食べること

自分が好きだなって思うものを大切にすること

(カワイイと思うものを作ったり買ったり身につけたりすること)

映画を見たり、絵画を鑑賞したり音楽を聴いたり

生活の基本ともなることがほとんどだけど。



自分が出来ることと出来ないことをきちんと見分けること


が大事なんじゃないかと思う。



誰かが困っていたり助けを求めている時に

自分に出来ることをするのは全く悪いことじゃないし

自分がこれ以上は出来ないという時に

誰かに助けてもらったり助けを求めることは

人間同士のありかたとしてとても自然で当たり前だと思う。


でも、それを通り越して、すごく人に求めてしまったり

(そういう人はたいてい何でもヒトのせいにしたり

勝手な期待をヒトにして、裏切られたと言ったりする)

自分を大切にすることと自分を甘やかすことを取り違えていたり

自分で何でもしないと、と抱え込みすぎてしまう。



人生生きてれば、ピンチもあるしチャンスもあるし

平和な時も不幸だって思う時もいろんな時があるよね。


でも、どんな時も、きちんと自分が出来ることを見つめて

無理もせず、かといって怠けもせずに自分に出来ることをやっていくことが

自分を大切にすることにつながっているんじゃないかと思うの。



ヒトはいつももっともっとと思いがちだけど

それがないと私は不幸なのかしら??

と考えてみたら、自分の幸せはここにあることに気が付くんじゃないかなあ。


何かを持っていないワタシ

何かが出来ないワタシ


そんなことに目を向けるよりも、自分が出来ることを

自分が気持ちよく出来る範囲ですることが大事なんじゃないかしら。




自分の気持ちを見つめていると

その気持ちの奥底に、つまらない見栄や体裁、思い込み

そして見たくない怖れや怒りや醜い自尊心が見えてくる。



本当に自分が求めているものは何なのか

自分がしたいことはこういうことで

したくないのはこういうことだと

感じることが出来るようになれば


つまらない言い訳や逃げ道を用意しなくても

自分の気持ちにしたがって生きることが出来るようになる。


それが本当に自分を大切にすることなんだと

私は思うんだよね。




自分そっちのけでヒトのために何かをしたり

自分そっちのけでヒトに責任を押し付けたり


どっちも自分がおいてけぼりなんだよね。



自分を大切に出来るのは自分しかいない。

そして自分を大切に出来ない人は

周りから見てみれば結果的には迷惑だ。

だって、自分を大切に出来ない人は

ヒトを大切に出来るわけがないから。



何人もの人がセッションで自分を大切にしなさいと言われて

どうしたらいいのかと聞き返していたけれど


具体的なことはそのヒトが出来ることとしてまちまちだ。

自分の感情にフォーカスして日記をつけるように言われたヒト

考えを止める時間を毎日作るよう言われたヒト

食べ物から改善するよう言われたヒト



でも、どの人もきっと、どんなことがきっかけであっても

今すぐでなくても、良くなっていく。


植物が日の当たる方向に伸びていくように

どうやっていても良くなっていくのはヒトとして生まれもったものだと

感じるようになった。



どんな人も足元を見て自分に出来ることをやっていくことで

大きな可能性の海が目の前に開けてくると確信している。








ヒトを信じるって、つまりはこういうことなんだな。



お盆はお寺の住職がやってきて、お経を読んでいったよ。



提灯を出して線香を焚いて窓を開け放ち

座布団と冷えたお茶と数珠と読経。




小さい時から変わらない夏の終わりの少しの時間。





私はなんとなく仏教だけども

内容も何にも分からない無信心者。


だけど、この時間はどうしてかとても気持ちいい時間なんだよね。



読経の音と一緒に、線香の香りとともに

空間に溶け込んでいくような


ぽっかり空いた時間。





いつも時間に追われている人も

いつも時間をもてあましている人も

なんとなくお盆はぽっかりと空いた

なのになんだか懐かしくてじんわりと幸せな

そんな時間を過ごしているんだろうなあ。


ちょっと名残惜しいじかん。


最近、ヒトの話を聞くことが多いんだよね。



まあ、それが仕事と言えばそうなんだけど

仕事以外でもお話を伺う機会が増えていて

思うのは、意外と、自分の話をたくさんするヒトが

多いってこと。


シャイなヒトや、言葉にすることが苦手な人も

じっくり聞いてくれると感じると

たくさん話してたくさん表現できるのね。



その話の中で、そのヒトのキーワードや

トリガーを探しているんだけど

今年に入ってから、ヒトの話をちゃんと

善悪の判断をしないで聞けるようになってきた気がするよ。


普段の会話とは違うけど

そうやって自分のことを相手がどう思うかとか関係なく

話せる場所って、なかなか無いのかもしれないね。



そして、話して表現していくことで

自分でも気づくことがたくさんあったり

質問することで、初めて気が付くことがあるみたい。




話すことは表現すること。

自分の中のかたちがないものを認識すること。


そういうことなのかもしれないなあ。




そして、そうやって自分の中の

認めたくない部分とか、気が付いていない部分は

見つけて解放してもらうためにあるのかもしれないよ。


私もそうだったけど、

「こんなことをしたり話したりしたら、こう思われるかもしれない」

っていうのは、もしヒトが同じことをしているのを見たら

自分はそう思うっていうことなんだよね。

そこに拘っていて、生きにくくなっているのよね。


例えば、ひとりで御飯を食べているのを見られたら

寂しいって思われそうでイヤ。って言うヒトとか。

私は全然平気なタイプだけどね。


ヒトってやっぱり自分を基準にしか考えられないから

自分が思うことを思われるって感じちゃうんだろうね。



そんなところが自分にあるかどうか

一回ちゃんと観察してみると

また何か一枚脱皮できるんじゃないかなあ。




大阪の2児死亡事件・・・・。



大量のゴミに溢れたエアコンもつけず食べ物もない部屋に

3歳と1歳9カ月の子供を閉じ込めて放置・・・・


裸でやせ細り、母を呼びながら亡くなった2人の小さい子供を思うと

本当に心が痛む。


どれだけ悲しくて苦しくて辛くて不安で助けを求めたんだろう。




23歳の母親はホストクラブ通いにはまっていたようだけど

シングルマザーで現実から逃げ出したかったみたいだ。


母親を責めるのは簡単だけど

その母親に誰も気が付けないこの世の中にも

何か問題があるんじゃないのかな。


風俗でも働きながら二人を育てて、私は偉いと思う。

最終的にはひどいことをしてしまったけど。

もちろんとてもひどいことをしたのだし、責められても当然だけど

それでも、何か、荒んだ心がそうさせてしまったのじゃないか。



誰だって、現実から逃げ出したいと思うことってある。

それほどまでに追いつめられていたヒトに

どうして気が付けなかったのか。


気が付くほど近い存在の人はいなかったってことなのか。



助けてって、言う人もいなかったのか。



ものもたくさんあって、ネットという新たなヒトとのつながりもあるのに

本当の自分を出せる繋がりはなかったんだろうな。



個人主義って、もっと違うんじゃないのかな。

他人のことなんて知らないなんて、それじゃあ

この世に生きてる意味ってあるのか。


ネグレクトの事件はここ数年で急激に増えたように思う。



それでもとりわけこの事件はショッキングだ。



もっと、ヒトとヒトとのつながりのある社会じゃないと

いくら制度を作ったって、義務や仕事でかかわったって

意味がない気がする。


コミュニティを見直す時期に来てるんじゃないのかな。




福祉だなんだかんだを充実させても

その中に虐待があるように

制度ではヒトは守れないんじゃないか。