・臨死体験みたいな三年寝太郎(そして無とか愛とか)
生きながら死んでみる、という体験でもあった
と気がついた。
三年寝太郎の無為の素晴らしさは臨死体験に似ている。
死んでるっぽい状態を経て
私がやってきたところ、そして帰っていくところに触れた。
それは無であり、空であり、無限の愛のところ。
ヤバイ感じに聞こえるだろうけど
始まりと終わりが同時にあるところは
ざっくりいうと無限の愛の体験。
ちなみに私にとっての愛は
存在をゆるすこと=愛。
数字であらわすなら010。
無で(0)有って(1)無だ(0)
そういう意味では存在すべてが愛って感じ。
引きこもりのプロとして2月からこっちの動かない時期を通過して
本で読んで頭でわかったつもりだった
ワンネスとか無限の愛とか不二一元論とかいうものが
あ!この感覚!ここの場所!ってなった。
ここが不思議で、わかったつもりと腑に落ちるは
腑に落ちてみないと、わかったつもりだったことが分からない。
無限の愛の体験は私の場合は
死っぽいエネルギーゼロの状態で、
内なる問い、感情を掘り下げていったら(そういうことしかできないし)
いきなりそこにあった。
豊かで、喜びがあって、どっしりと広くて安心で、生き生きとしている。
そんで存在することが愛だからただただ無条件。
価値の証明もいらないし
居場所を探す必要もないし
罪も罰もないので罪悪感もゆるしも不要。
すごいじゃないか!ヤバイ。
うっわ〜、なんか涙にじむくらい愛しいわ〜
っていうこの場から憎いアイツを眺めると
強そうにみえていた相手は弱くて傷ついていて、あの時、酷い言動しか出来なかった人。
その弱さと傷がせつなく、愛おしいじゃないですか。
ついでに、憎いアイツが別の自分でもあったんだと気づく。
別バージョンの私、こうなる可能性もあった私が憎いアイツ。
加害者も被害者もどっちも私であったという
アンビバレンツな認識が起こり
憎いアイツにありがとうな気持ちになった。
無に有が含まれて、無に有も含まれている。
空だけど、満ちている。
相反する状態が両立するところだった。
憎いアイツだけじゃない。
イライラする指導者や絶対分かり合えない信条の人もバカとしか思えないタイプも
共感と哀しみと愛しいのであった。びっくり。
一度、この感覚、この場所を体感すると
心を落ち着けて瞑想状態になると
無限の愛のところから人生を見ることができる。
自分の内側から力強い無限の感じが湧き上がってくる。
まあ、まだ24時間は無理。
でもこの場所って誰でもいつでも触れられることなんだなと思った。
(産まれてきて帰っていくところなんだから当たり前か)
私もオッケーであなたもオッケー
傷もオッケーで失敗も間違いも未熟もオッケー
なんかそういうことらしい。
って分かってから世界との接しかたは変わりました。
リーディングする内容も変わった。
自分の認識も変わりつづけている。
三年寝太郎というギフトはまこと偉大であったよと
1ヶ月経ってもまだまだ届いてるギフトをありがたく受け取っているところ。
●直感を育てるワークショップ アースワーク講座 5/27
https://ameblo.jp/cosmic-typhoon/entry-12191717821.html