私の人生脚本 | ティル・ナ・ノーグ Tir na n-Og
この記事は、私のこれまでの人生を物語る、いわば履歴書(プロフィール)の様なものです。私が一体どんな人物で、普段何をして過ごしているのか──これを、ブログの訪問者様に見て頂きたく書き綴るものでございます。

もし私の人柄を知って、訪問者様の期待を裏切るような人間であると判断した場合や文章が非常に長い為、読みづらい方はブラウザの戻るボタンでお戻りください。ありのままの自分を書くつもりでいますので、それでも私を「一人の人間」としてこれからも接して下さる方がいれば……


<まえがき>
私は2011年で御歳25になります。大学卒業までは、どこをどう取っても平々凡々な人生。将来は○○になりたい!という目標も特になく、サラリーマンで課長くらいになればいいかなと、ただ漠然とした気持ちで就職をしました。そしてまさかの長距離転勤・一人暮らしへ──

<1.身体が動かない>
平凡な人生の急変は、就職して半年経ってから起こりました。ある日の寒い朝、いつも通り出社しようと起床としましたが…左半身が激痛に襲われ、我慢はしたものの途中で力尽きて倒れました。救急車で病院へ運ばれ、なぜか緊急手術の用意が・・・。
「今あなたを見過ごせば、人生が壊れます」と医師。
即座に両親と連絡を取り、数時間の協議の末、手術は見送られました。その『椎間板ヘルニア』の程度はあまりにも大きく、世界中どんな外科医を探しても療養を勧める人はいないほどでした。
私は職場を一旦離れ、家族の元で療養する事にしました。理由は様々ありますが「一人暮らしだと万が一の時に駆けつけられない」ことが最大の要因でした。しかし私は「手術に使うお金があるなら、両親に渡したい」との思いで帰省しました。

<2.奇蹟と葛藤>
療養生活は10ヶ月にも及びました。今思えば、手術をせずに10ヶ月で復職できた事に些か驚きを隠せません。「療養」というのは「ひたすら休むこと」でしかありません。つまり、どこの医者にもかからず家で寝たきりの生活です。トイレに行くにも、便座に座れない。読みたい本があっても、左半身が言う事を聞かない。幸いにも“利き手・利き足”が右だったので、食事には困りませんでした。
帰省して4ヶ月が経った頃、少しずつ歩けるようになりました。母の知り合いに外科医がいるのですが、その事を話すと「奇蹟でしかない…」と仰天していました。私はとにかく早く戦線復帰したく、痛みが取れたと嘘をついて強制的にリハビリを行いました。月日が経つごとに支えがなくても普通どおりに歩けるようになったので、自分は超人だなどと傲慢な気持ちが現れ始めます。
しかしながら、職場へ復帰するには医者の復職許可診断書が必要になることを失念していました。その紙切れ一枚をもらうためには“テスト”を受けなければなりませんでした。まずはMRIでの科学的審査、そしてリハビリプログラムの卒業という物理的審査。
休職8ヶ月目になっても、前者の審査に不合格を出し続けました。まだ大きな『ヘルニア痕』が残っているため、危険な状態だと悪魔の宣告。
「もう動けるのに、医者っていうのはみんな偏屈だ」と次第に憤りを感じ始め、それがいつの間にか家族へも横柄な態度を取るようになり……孤立。。。「分かってくれない人間はクズだ!」

<3.二つのハンディキャップ>
「クズ」だったのは自分だと気付いたのは、それから数年後です。
私はとうとう『うつ病』になりました。休職9ヶ月目です。誰ともコミュニケーションを取らなくなり、あくる日とは違う“寝たきり状態”へ──何もかもがイヤになり、早く一人暮らしの生活に戻りたい気持ちでいっぱいでした。休職10ヶ月目で、私は強行手段に出ました。外科医の前で
「科学的な根拠なんていりませんよ!どうしてこんなに動ける私を職場復帰させてくれないんですか!?お金ならいくらでも出しますから、いい加減書類を書いて下さい!こっちはもう限界なんですよ!!」
そう言ったら、医者はたじろいで「絶対無理な仕事はしないでくださいよ…?ダメだと思ったらすぐに仕事を辞めるつもりで臨んで下さい」と、ようやく許可書を出してくれました。
数日後、両親に特に何も告げず、「仕事戻るから」と一言言って旅立ちました。。。限界だったのは身体の動きではなく、心の働きだった事も忘れて──

<4.意地から決心へ>
今度こそ同じ二の轍を踏むものかと、意気軒昂と職場に復帰。しかし10ヶ月のブランクと半年しか仕事経験がないことが災いして、職場では常に怒号が響き渡りました。「お前はホント出来が悪い奴やな」
上司にはハンディを背負っている事は一切伏せ、とにかくブランクを取り戻すという意地を張って、やるだけのことはやりました。でも認めてもらうには時間がかかりそうです。
…何の因果かは分かりません。ヘルニアで倒れたあの日と同じ日に、私は得意先で数百万とする機械を壊してしまいました。許す、許されるの問題ではありません。会社の信用問題にかかわる重大事件となったのです。
その日、私は上司の前で不覚にも大泣きしました。同時に、ヘルニアはまだ治っていない事とうつ病を患っている事、全て話しました。いつも怒ってばかりの上司は思いもがけない言葉を発しました。
「お前……なんでそないな事今まで黙っとったん!!なんで誰にも相談せぇへんのや!辛かったろう辛かったろう…」
本当に苦しくて、でも認めてもらいたくて、話せずにいたことをようやく吐き出すことが出来ました。でも心身ともに限界を感じた自分は、とうとう“会社から身を引く決心”をしました。意地や虚勢ばかり張っていた自分自身を縛ることを止め、迷惑をかけたくないのでという理由を話し、休職という名目で1年間休んだ後、今年の1月に退職しました。もちろん二つの障害は残ったままです。

<5.さらなる苦難>
退職後はすぐに就活を開始。けれどどの会社も「貴方の身体の状況からして、うちの業務がこなせるとは思えない」と門前払い・・・。皆『それなら病気とか怪我のことを隠せばいいじゃん』と簡単に言ってはくれますが、当然退職理由を聞かれますし、ただでさえ就職難だというのに若いうちからすぐ会社を辞めるなんて贅沢すぎると怒られたり…など、病状を隠し通すことは困難を極めます。
3月の「ある日」を迎えるまで、うつの症状がひどくなる一方でした。ちなみに「憂うつ」と「うつ病」は別物です。ただの憂うつ状態であれば、好きな事をしたりしっかりと休めば気分が晴れてきますが、うつ病ともなればとにかく『自殺願望が強くなる』傾向があります。私は何回その願望に悩まされてきたか……。周囲に理解者はほとんどいませんでした。まさにそのストレスが爆発しようとした時──

<6.一筋の光>
3月を迎えた頃、ある親友が言いました。
「本当は(周りの人に)『私は苦しい』って分かって欲しい」
「でも迷惑をかけたくないから、言えない
「もし自分の事を心配してくれる人がいたら、その人は絶対幸せになってもらいたい。私の分も足し合わせて」
ショックでした。もちろん私もつらい状況でした。が、その親友は確かに言えないことを初めて言えた瞬間でした(分かり難くてすみません)。そう、私も口から出したかった言葉を、はっきり伝えてきました。そして思いました。なんて勇気のある人なんだろう・・・そして、何故近くに苦しんでいる人(ましてや親友)がいるのに、俺は気付いてあげられなかったんだろうと。けれど私も病気持ちですし、どうやって手を差し伸べたらいいのか分からず、たくさん涙を流しました。方法がない、手段がない、はっきりいって四面楚歌、あらゆる思考が霧散霧消。こんな発想が出てくること自体が、私にとって「良い意味でのイレギュラー因子」でした。
これを機に、私は自分の事だけに固執するのではなく自他共に心の内を話し合える人間になろうと決心したのです。それからというもの、まだ若い(?)うちから精神障害を持つ方と接することのできる仕事はないものかと、足しげく本屋へ通い詰め、とうとう出逢ったのが国家資格である《 精神保健福祉士 》に関する書籍でした。これなら勉強すれば今だって間に合う!苦しんでいる人の心に灯をともすことができる!まるで、真っ暗闇の中に一筋の光明が垣間見えたような気分でした。

<7.新たなる道>
それから1ヶ月もしないうちに、私は既に専門学校へ通って猛勉強する意思を固めていました。2012年度の入学に向けて見切り発車をしてしまった形にはなりましたが、あらゆる学校のオープンキャンパスへ行き、自身の体調を考慮し(長距離通学は無理なので…。勿論校風や授業体系も考えています)自分に合った学校を見つけました。
受験に臨むにあたり、これもやはり身体情報が大きな壁となって立ちはだかります。5回以上学校へ足を運び、ひたすら面接官へ自己アピール──大丈夫です!私は動けます!──もともと勉強が好きだったのでその熱意もぶつけました。そうして8月半ばに入り最終面接。
「私は貴方の身体を鑑みるに、入学はまだ早いのでは?」
「確かにハンディはあります。ですがどうしても助けたい人がいるんです!最近はアルバイトも始め、徐々に生活習慣を戻していく努力をしています。貴校の模範ある生徒に、私はなりたいのです」
分かりました。と言って、その場で合格通達を受ける事が出来ました!晴れて私も人を救える立場になれるスタートラインに立つことが叶ったのです!

<8.これからの人生脚本>
《 精神保健福祉士 》は、周囲からの評価が悪い傾向にあります。なぜなら、いくらこの資格を持ったとしても『お医者さん』ではないからです。それを陰で徒に『医者』として振る舞い、上から目線で患者を見下す・・・これでは有資格者としては本末転倒です。
私はそんな考えを払拭したい。だからキチンとした勉学の場で正しい教育を受け、本来の姿で人々に手を差し伸べたい。綺麗事を並べてカッコよくキメた様に見えるでしょうが、紛れもなく本心からそう思っています。笑われたって構いません。直すべき個所は矯正し、正しい行動はひたすらそれを貫くだけですから。これが“これからの人生脚本”です。

<おわりに>
ズラッと書き綴ってしまったため、多少感情的な部分もありますが、それもこれもひっくるめて『私』という人間なのです。その軌跡をブログという媒体を通じて皆さんに配信していくことが、私の成長記録になります。未来はどうなるか分かりません。もしかしたら、本当にただの課長で人生を終えるかもしれません。その時はどうぞ笑ってやってください!
私には日記を書く気力もないので、どうせならネット上に刻んでしまえば逃げられませんし、あるいは心変わりする様を見る事ができるやもしれません。どっちに転ぶか、ギャンブルみたいでなかなか面白いブログになりそうです!

ここまで読んで下さってありがとうございました。絵文字や顔文字を使わなかったのは、ただまじめな文章にしたかっただけでしたので、大変読みづらかったと思います。。。今後は読んでて楽しいブログを目指して頑張りますので、これからも宜しくお願い致します!