土曜日の練習で改めてマエストロが言いました。
『今回はちゃんと休符を歌います。ブレスも感情をこめて歌ってください。』と。
そのための具体的な技術指導が本当に細かいです。
音程もピッチも当たり前。フレーズについている歌詞の意味から、レガート・ノンレガートも決められます。
もと設計者だけあって技術的にかなり緻密。
私には理解しやすいアプローチです。
ドイツ語単語の語尾を音程上強く歌ってしまう人にはきっちり注意が入ります。
『音程に負けてはいけません』
下降する旋律は放置しておくとdimするのでソプラノには厳しい低音でなおかつフォルテになると本当に力を使えるような声楽的技術を修得しなければなりません。反対も然り、です。高音になっていく旋律の時は勝手にcrescしてしまうので、ピアノで歌うときや語尾があたるときは加減して後に響きの角度を変えます。
もう一つの合唱団で地声の若造が『ちゃんと上の音と下の音がはっきり上がり切れてなかったり下がり切れてない』とモノ申しました。声楽的なディクションを考えたり、上の事を知っていたら、そんなコメントは出ないんです。ムカつきました。意見言う前にお前、地声直して、声楽的な発声ちゃんとして、声楽理論修得してこい!!!準備なんぞ当たり前じゃ!!!
・・・言えませんでした。これまたソプラノの奥さんと仲良く楽しく声を出しています。本人出来ているつもりが強いので、しんどいです。
だから話し言葉の発音の仕方を踏まえるけれども、実際に旋律で声楽的に声を出すとなると、微妙に変化させるんだよっ!!!!それも技術だよっ!!!
初めて直ぐに理解したオバサンがいるんだから、君、20歳そこそこなんやから、速く飲みこんで、それで尚且つ、声楽的に指摘するなら指摘せぇ!で、具体的技術としてどうしたら、そんな事出来るねん!!!
あ、取りみだしました。すみません(^^)
上下する旋律は(声楽をしている人当たり前すぎますよね、ごめんなさい)、原則は中音にピッチを合わせてそのピッチのまま、それ以下の音もそれ以上の音も出します。が、ソプラノはより高音を求められるので、最高音に合わせて、尚且つピッチは高めを求められる事が多いです。
で、君!テノールなんだから、基本は酷似しているんだから、それやってよ!!!ぶーぶー!!
ヽ( )`ε´( )ノ
正直言って、曲を知っている事や、外国語を知っている事を自慢はするけれど、合唱でそれを実現して聴衆を魅了するには、声楽的な知識と技術で修めないといかんのでは???
事実、北村先生はゲネを聴いて、そのまま修正しはりました。「a men」の「men」が勝っていると。「men」を「a」の中に納めて。というアドヴァイスは何度もあります。「誰?踏んだる、踏んだるって関西弁みたいに歌うの!ヤメテ!!fundarのdarは語尾です。語尾強く言う人どこにいますか?」って。
だから楽譜は必要最小限の事しか描いていないので、その向こうの音楽に速く辿りついて、それを表現してください!!!
これはマエストロも北村先生も同じ意見です。
だからこそ、もうひとつも合唱団のある一つの音だけですが、6度で降りていた私は基本中の基本が出来ていなかったという意味では、ハッキリ指摘されるまで自覚が少しはあったものの、自覚した事を定期演奏会の疲れと、
特に娘の精神疾患症状が落ち着かなかった看病と心労で忘れてしまっていて、予習が出来なかった、という意味では、致命的な音取りをしてしまいました。
本体の合唱団の練習の前までに喫茶店で時間を潰すのが慣例になっているんですが、そこでもそれを執拗に言われたり、時にはそこにいない人の文句が出ます。それは個人的にはしんどいし、そこに使うお金も厳しい我が家では、自分がケーキセットを食べているそのお金で家族の食材を買いたいのです。
やっぱり、お引き受けしないほうが良かったかもしれないのですが、派生合唱団のリーダの強烈なお誘いと、「震災孤児となられた子どもさんたちへの支援のチャリティー演奏会なんです」と言われると、御断りする理由が一気になくなってしまいました。
でも、被災していなかったり、健常だったり、不登校にならなかったり、社会で偏見を受けない側で育って来て、そのような環境で育て終えた人や、子育てをしていない人に、そのようなこころがわくのでしょうか、理解できるのでしょうか、想いを馳せることができるのでしょうか・・・
そう思ったら、悠長に歌っているなら、がれきのひとつでも運びたい、とか、焚きだししたい、とか、現地の発達症がいのお子さんをもつお母さんの支援に行きたい、と思ってしまうのです。。。
だんだん、今やっている事と、本来するのに好ましい事とが乖離してきてしまって、苦しいんだと思います。
大きな元合唱団の練習に行くだけでも、子ども達に無理をきいてもらっているのに、派生のそれや、向上したい・ついていきたい・聴衆のみなさんの耳障りな声は出したく無い、という気持ちから、京都でもプロの合唱団のまずはエキストラに参加しようとしたけれども、
それって子ども達との時間が減っているんですよね・・・
離婚の理由はDVとか女性問題とか借金とかいっぱいありましたが、決意したのは子ども達へDVの矛先が向き始めたからだったし、就学するまでは一緒に居たいと言ったのに個人的な消費から私もフルタイムのパートにでないといけなくなった、という、子どもを育てる安心できる環境づくりを最優先にされなかった事が最大の理由なんです。(複利計算が机上で出来ない人だった・・・(元本+金利)のN乗、が書けなかった人・・・)
傍若無人な人が横行する現在の社会で、不登校は私は少なくとも間違った判断では無かったと自負しています。学校で勉学をおもにして教える事を求められるのなら、そんなもの私が教えられます。本人に合ったアプローチが出来るほど、あるひとつの問題に対しての解法はいくつもアプローチを持っています。
学習指導要綱にしばられもしないし、上司の顔色うかがわないでもいいし、それで影響する給料の事も気にしないでいいお母さんが、ゆったりとした気持ちで、少人数制で子どもに教えられます。
でも、それは、社会通念上、奇異だと言われ、変な目で見られます。
だから、選挙の件で、「お医者さんをやってた」とか、その他大勢の一般のだれでもが「あらそうなの?」と言いそうなうたい文句で近寄って来る人を嫌悪するんです。
だから派生合唱団も、どうしたものか、と思っています。
そんな事するなら、高額な金銭で楽譜買わなくても、オケを雇わなくても、それらの対価を義援したらいいのに、って思います。
オケをも指揮したいだけじゃないの?娘にソロをとらせたい母体としたいんじゃないの?母体合唱団ではリーダだけでも、12,3人いるから、唯一のリーダになりたいんじゃないの?
とか思っちゃったりしました。
人間つきあいに疲れているんだと思います。
色んな背景があって、色んな生育があって、色んな価値観があって、色んな概念があって、色んな目標がある。
でもやっぱり選びたいんですよ。自我があれば誰でも。もちろんこの意味は、「敢えて受け側になる」「敢えて依頼される側になる」「敢えてついていく」も含まれます。
でも、やっぱりそこに「騙し」「まやかし」「誤魔化し」があっては信頼関係が崩れるんですね、私の場合。。。
言動が不一致はあることですが、あまりに簡単にそれが乖離していると見抜かれるようでは、簡単に信頼なんて失墜しますし、そもそも信頼なんてしてもらえませんよ。
コツコツ、地味、が、ベースだと私は思っています。
あ、だからかな??? なんだか最近、何も訊いていないうちから、(特に昔の)自慢話されたりする事が多くてしんどいのは。
だから楽曲を知っているのはいいから、それを声楽的楽曲的に美しく歌って見せろ!!!
口先だけのヤツ・自省の無いヤツは大嫌い!!!
ふんっ( ̄へ  ̄ 凸