Requiem for the Living – Dan Forrest | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~




未だ何も知らない。


それは素晴らしい事かも知れない。


これからたくさんの出逢いが待っているという事だから。


現代作曲家ならでは、の、なんとも劇的な解釈と構成ですね。


これまでのレクイエムだけでなく、これから生きる人間への永遠の安息を、という意味も込めて作られたのでそうです。


精神状態が本当によろしくなく、私は精神崩壊を、知識や技術を猛烈に修得することでどうにか防いでいたように思います。


私が・・・家の中でさえ、子どもであり、女性であり、立場が弱かった時に、救われようとは、救われるとは毛頭思いつきませんでした。


あの頃、音楽に救われていました。音楽が見せてくれる像や世界観に没入することによって、感情を解放し、どうにか保っていたように思います。


そんな子どもでした。


今でも、宗教曲は、そんな「もう生きているのが辛い」と吐露してしまう、拠りどころであって欲しいと願っています。


美しい音楽、絡み合う美しい旋律、それにまた合わさる美しい声の合唱。


全体で一体の『音楽』なんですよね。


作曲家がどうしてそこにその音を持ってきたのか、どうしてその歌詞を嵌めたのか、どうしてその曲順構成にしたのか、全て全て細部がまるで細胞の中のDNAやもっと微小な神秘的な原子や光子の宇宙の世界に没入するかのように、こころで学び、それらが集大して音楽という宇宙になる。


そこに人が身体や技術を音楽や楽器にして、それに対して素直な音で、応える。


そんな安息の世界に、私は行きたい。。。


埋もれてしまいたい。。。


この安息が終わらなければいいのに。


まさに、aeterna、って感じですね。


天使の声に誘われたいのです。 だから拘りたい。 神様にいただいたこの声を、そう尽くしたいし、使いたいのです。。。


この声で天使の階段が創れるのなら、あるいはあるかのように映るのなら、それに向かって、ただただ精進して、導かれるままに生きて行きたい。。。


宣教師の金さんが隣で初めて讃美歌を御一緒してくれた時、『その声は神様からの贈り物です』といってくださいました。


金さんもお母様を亡くしてすぐで、まだ受け容れられない時期で、ずっと男性が怖くてひとり身でいる事を、社会通念的には申し訳なく思っている同い年の女性であることをしり、


共に生きにくさを抱えた人間として、なんだか同志のような気がしました。彼女はとても美しく正確なメゾで私が歌いやすい状況をスッと作ってくれました。


「歌っていいんだ・・・」って自分に許可を出せたのは、彼女のおかげです。


今は、別の教会に旅立たれました。あの時の御縁が、あの時の言葉が、私が歌を歌う事を支えてくれています。


だからこそ、まっすぐに美しく伸びやかな声を育てたいのです。


皆さんのこころを導くお手伝いができるようなそのような声になりたいのです。


そのための努力は惜しみません。休め、というなら、休みます。


そのために、こころ・精神を鎮めたいのです。。。


だから、宗教曲を聴きます。昨今は教会で歌うという事から解放され、普通にホールで演奏されています。。。


そう、歌うことで、私は、いろんな現生の、強迫的潜在的に従わないといけない一方的な契約のようなものから、解放されて、私にとっての安息を手に入れたいと、渇望しているのだと思います。