十五日。
百万遍の知恩院手作り市。
遠くからも沢山の人、人、人。
で、ここからが問題。
皆さん素行がお悪いのです。
我先に肖らんと凄いのです。
まさに煩悩の塊が人間の姿をしている様で、
本当に吐き気が凄くなって動けなくなりました。
ただただ学問に身を修める為に近くに住ませていただいているだけです。
周りの催事には全く気を逸らすことなく、
心身を捧げて来ました。
しかし、研究職はどんな予算をいくら獲得したか、という物差しで計られる事を、
私は知らずに飛び込んでしまいました。
小さな子どもを二人乗せた小さな小舟は難破しました。
私には還る処はありません。
流れ着いた先で人が要らないと棄てたモノから使わせていただく他に無いのかもしれません。
モノに命が宿ると仏教にあったように思います。
けれど手作り市の名のもとに人工物の電車や車で混雑し、
信号機に規制され、金銭の授受を介して(金銭に規制され)モノが交換されます。
それを我先に、と、集うのです。
偶然を必然といいプレッシャーを乗せて。
偶然は偶然です。
必然は必然アルゴリズムを図れる人から見れば必然です。
なので私は競争や人気などの時間を集約した概念(価値観)は嫌悪します。
今日餓死する子どもがいる同じ地球で、
十五日に煩悩が集い、その枠の中で、仲間同士で私服を肥やす。
これこそが既成概念でなくして何なのか。
私はその枠の内側の人に束縛をする、と言われました。
もう外に弾かれてくれ、の代わりだと、ようやく気づきました。
仲間はずれの人生。
私は生まれた意味があるのだろうか。