ワク推奨派は、事をすぐに「政治問題」にすり替え、「科学的論争」を避けようと必死です。

 

 

大事なのは、

 

コロナ&ワクチン問題の客観的な検証

 

です。

あらゆるデータを余さずテーブルに並べて、肯定派・否定派を交えて検証・検討すれば、建設的に「前進」できるのに、絶対にそれをやろうとしません。

 

反ワクが議論を避けているというのは大嘘も大嘘で、データを隠しているのは明らかに推奨派(と製薬会社)です。というか、彼らしかデータを持っていないのです。

反ワク派が独自に調べようとすると、製薬会社に訴えられたり、雑誌には論文掲載を拒否されてしまうのですから。

 

よっぽど都合悪いことがあるのでしょうね。

 

混乱・停滞して公衆衛生に悪影響が出る

 

といいますが、仮にmRNAワクチンが有害だった場合(有害なんだけど)、推し進めるほうがよけいに健康被害が出てしまいます。むしろ「停滞」してくれたほうが人命が救われるのです。

 

 

mRNAワクチンが良いもので、本当に人類を救うと信じているなら、推奨派の科学者はまず製薬会社からの資金を全額変換し、利害関係のない立場で堂々と発言すべきです。

であれば、「科学者としての信念に基づく発言」として一定の評価を与えましょう。

 

それができないなら、「悪魔に魂を売った」と思われても仕方ありません。

 

上の記事にコメントを書き込んでる連中は、いいかげん「盲目的なワクチン信仰」から目覚めるべきです。

権威に追従するのではなく、自分で情報を集め、自分の頭で考えるようにしなければ駄目です。

 

 

SNSが虚偽情報を拡散する

 

確かに一翼を担っている側面は否定できないので、「間違いである」とまでは言い切りませんが、少なくとも「正しく」はありません。

 

実は、こながはプレアデス星団から来た宇宙人である

 

と宣言したとして、果たして皆さんは信じられますか?

 

そんなアホな

 

と鼻で笑われるのがオチでしょう。

 

もちろん明らかな虚偽情報(デマ)ですが、では、広まるデマと広まらないデマの違いは、どこにあるでしょうか?

 

それはずばり「信憑性」

平たく言えば、「もっともらしさ」です。

 

デマが広がるためには、

 

あり得るかもしれない

 

と多くの人が感じる「もっともらしさ」と同時に、デマが広がるための「土壌」が重要なのです。

 

故意にか無知のせいかはわかりませんが、

 

SNSデマ拡散説

 

を唱える「専門家」は、この最も重要な要素を完全スルーしています。

 

決してSNSの力でデマが拡散するのではなく、バックグラウンドに「虚偽情報を受け入れる社会情勢」があるからこそデマが広がるのであり、この視点を抜きに事象を語ることはできません。

 

その部分を、大ざっぱに「社会不安」などでくくってはダメ。もっと詳細に分析する必要があります。

そのためには、過去にデマが広がった事例の「当時の時代背景」を探らなければいけません(ほらね、社会学の専攻だけじゃ勉強不足で、歴史や風俗の知識もなきゃいけないんですよ)。

 

 

関東大震災の直後、在日朝鮮人に対する虐殺事件が起こりました。

私は、そのような人道に反する悲劇を決して繰り返したくありません。

だからこそ、その残虐な行為を

 

差別主義者による流言飛語

 

なんかのせいにしてはならないのです。

 

 

多くの「専門家」が

 

被災による心理不安が引き金となった

 

と講釈を垂れていますが、それでは全然足りない。

 

前述したように、デマが育つには、それなりの「土壌」が必要です。

言い換えれば、当時の都民には、

 

朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている

 

という話が、いかにも「もっともらしい」「あり得ること」として受け取られたということです。

 

ずっと彼らを虐げてきた「罪の意識」や、コミュニティの分断による無理解・不寛容など、原因はいろいろ考えられますが、ともかくそこには、現代の「専門家」には想像すらできない「切実な信憑性」が備わっていたということです。

 

 

2025年の日本社会は、関東大震災が発生した大正末期と、とてもよく似ています。

今度の選挙で「日本人ファースト」を掲げた参政党が躍進したのを見れば明らかでしょう。

 

多くの日本人が、急速に増加していく外国人に潜在的な不安を感じています。

政府と自治体の「積極的な移民受け入れ姿勢」が、その不安にいっそうの拍車をかけています。

しかも、(実際はどうあれ)外国人による凶悪犯罪が「不起訴」になる事例(報道)が多く、市民の胸中ではどんどん不満が蓄積している様子。

 

ちょっと話がそれますが、強盗・殺人より、性犯罪の不起訴は非常にまずい。

有性生殖を行う生物の間では、オスにとって「メスの獲得」は自分の遺伝子を残すための「死活問題」であり、怒りの感情に直結します(メスをめぐって生死を懸けて争う)。

この点でも、「専門家」は明らかに生物学の勉強不足・知識不足です。

 

また、「外国人が(罪を犯しても)許されるなら、日本人ならなおさら許されて当然」という「公平さを求める意識」が生まれるおそれもあります。

最近、日本人による暴力犯罪も増えてきているようですが、「外国人が不起訴」という事例がそれを助長しているのは間違いありません。

 

経済格差の問題もあります。

以前も書きましたが、高い税金を納める日本人が主食の米を買うことすらままならないのに、幼い子供を何人も連れた外国人が観光地の高級旅館を独占し、大金を散財している姿を見たら、「あまりに不公平だ、世の中間違っている!」と考えるのは当たり前でしょう(かつては日本人が散財する側だっただけに、よけいに)。

また、チップ文化のある外国人が部屋を散らかしてチェックアウトするのは仕方ない面もあるのですが、旅館・ホテルのために、ある程度は整えていく日本人の気遣いとの「文化の違い」も、あつれきを生む一要因になっています。

 

 

こんな状況下で、今、日本で大災害が発生したら、どうなるでしょう?

蓄積した不満がいっきに爆発し、関東大震災直後の悲劇と同じことが繰り返されてしまう気がしてなりません。

 

どさくさに外国人が日本人女性をレイプしている

 

などというデマが生じたら、瞬く間に拡散し、またも「虐殺事件」が起こるのではないか、と不安が募るばかりです。

 

日本にリスペクトがなく、ただの「出稼ぎ」としか考えていない外国人は、自分や家族の身の安全のためにも、今は日本に移住すべきときではなさそうです。

日本が経済的に立ち直り、人々の心に余裕が生まれ、寛容的になったときに来日するのがベターです。

 

 

日本人を愛し、日本文化を愛し、ずっと前から日本に住んでおられる外国出身の方も大勢います。

彼らが、政府の「移民受け入れ政策」に反対の声を上げないのが不思議でなりません。いや、声を上げているのかもしれませんが、少なくとも大きく取り上げられてはいません。

 

このまま「短期間に大量の外国人」を受け入れていけば、全部とは言わないまでも、日本文化の一部は確実に失われます。残るのは、彼らが愛した日本とは「別の国」です。

しかも、「外国人」で十把一絡げにされ、これまで日本社会に貢献し、身も心も「日本人」となったのに、「単なる移民の一人」とみなされてしまうかもしれないのです。

 

「日本らしさ」が失われれば、インバウンドが激減するのも確実です。

「なあんだ、ニホンもほかのアジアの国と変わらないな。だったら、中国、韓国、東南アジアをめぐったほうがいいや」となりかねません。

旅行客にとって「オリジナリティ」は、それほど価値のあるものなのです。

 

 

おしまいに。

こながは、決して外国人の受け入れに反対ではありません。むしろ正反対。

「日本の伝統」の中には、明らかに非合理的で、改めるべき点が多々あります。

それに気づくためには、(前回記事でも述べたように)外から見た「違う視点」が必要不可欠だからです。

 

問題なのは

 

短期間に大量

 

という点なのです。

 

政府も経済界も目先の利益(税収増、低賃金労働力確保など)しか眼中になく、その先には

 

市民同士の殺し合い

 

という悲劇しか待っていません。

 

 

よいものをつくるには時間がかかる

 

つまるところ、大量生産・大量消費の資本主義とは真逆の考え方こそ、「幸せの真理」であるということです。

 

 

 

「何か一つでも得意なものがあればいい」

 

現在の教育の「主流派」の考え方ですが、何事も容易に(安易に?)信じない私は、

 

本当にそうなのか?

 

と疑ってしまうのです。

 

この考え方により、学問は細分化され、それぞれに「専門家」なるものが存在します。

学生・生徒は○○学部○○学科に進学し、ひたすら「一つの学問だけ」を学んでいくことになるわけです。

 

しかし、世の中で起こる事象に「独立」したものはありません。相互が複雑に絡み合い、「現状」を構成しています。

なので、「一つの学問だけ」を学ぶことは、視野を狭くし、多角的な思考の妨げとなるおそれがあります。

ある事象のうち、自分には理解できない(学んでいない)部分は切り捨て、おのれの知識の範囲内だけで理解しようとしてしまうのです。

 

「群盲象を評す(群盲象を撫でる)」

 

という言葉があります。

発祥はインドのことわざだそうですが、目の見えない人たちが、おのおの象に触れ

 

「鼻の長い生き物だ」

「いや、耳の大きな生き物だ」

「いや、足の太い生き物だ」

「いや、とがった牙のある生き物だ」

「いや、太い脚の生き物だ」

 

と言い争い、誰ひとり全体像がつかめないという意味です。

 

今、日本を含め世界中が、この状態に陥っています。

 

例えば、地球の環境は無数の要因によって成り立っていますが、神様(あるいはラプラスの悪魔?)でない限り、全体像を俯瞰できる人間はいません。

なので、グラフ上は相関がありそうな「温室効果ガスの量」にだけ着目し、それだけが原因のように捉えてしまいがちです。

環境問題だけを学んできた「盲人」には、太陽活動や惑星の位置関係、地球内部で起きている活動、目に見えない微生物の影響など、「自分にはわからない=考慮に値しない」となるわけです。

 

困ったことに、そうした「盲人」たちは、なまじ○○大卒、博士号・修士号取得といった肩書を持ってしまったせいで、

 

自分は正しい

 

という思い込みにとらわれ、異なる学問を改めて勉強もせず、「別の見方」にはまるで耳を貸さなくなります。

彼らは、そうした異分野からの批判に対し、自分の人格を否定されたかのように極めて攻撃的に反応します。その証拠に、誰かが「CO2犯人説」にちょっと首を傾げただけで、相手に向かってヒステリックに罵詈雑言を投げつけるのです。

本来なら、「別の見方」を提示されたことに感謝すべきでしょう。自分の視野(知識)を広げてくれる、ありがたい指摘なのですから。

 

新コロワクチンでも同じことが繰り返されています。

ワクチンに対して問題提起がされたなら、それを検証するのが真摯な科学者の姿勢です。なのに、はなからはねつけるのみならず、(ホリエモンのように)相手をただ「反ワクのバカ」呼ばわりするだけで、自分が成長するための肥やしにする気など毛頭なし。

それは、まさしく思い上がった「盲人(目が不自由な人という意味ではない)」の姿です。

 

 

ダーウィンの進化論の致命的な欠陥に、「海を隔てた大陸に、明らかに同じ祖先を持つ生物が存在する」というのがあります。どう考えても広い海を越えることは不可能なのに、なぜそんなことが起こり得るのか?

ダーウィン自身は、「流木に乗った動物が海を越えて新天地にたどり着いたのではないか。何万年の間に何万匹もの動物がそうした移動を行えば、確率的に運のいいやつが一匹ぐらいいてもおかしくないだろう」と苦しい仮説を唱えました。

この進化論の「脆弱性」を塞いだのが、ウェゲナーの「大陸移動説」です。大陸自体が2つに分裂したとすれば、わざわざ動物が海を渡る必要がなくなります。

生物学(進化論)と地質学(大陸移動説)というまったく異なる学問分野が溶け合わさって、一つの「真理」を見つけることになったわけです。

 

経済を知るのに経済学だけを勉強してもダメ。

経済活動が人間が行うものである以上、心理学を学ぶことも重要ですし、そもそも心理学は、文学や芸術が描き出す「人間の本性」を後づけで分類するために生まれたような学問です(なので、心理学の○○効果といった用語には、しばしば神話や童話、小説の登場人物の名がつく)。

経済を学ぶなら、同時にギリシア神話や古典文学も学ばなければいけません。

 

 

このように、ある現象をより正しく理解しようと思ったら、

絶対に「別の視点」が不可欠です。

 

「一つの分野を究める」

 

だけでは、偏った「盲人」が出来てしまいます。

いや、もちろんそうした「専門的人材」も大事なのですが、それらを集約して俯瞰的に見渡せる人物を、今の世界は必要としています。

唯一の問題は、そのような稀有な人材は、恐らく数百万人に一人くらいしかいないことです。

現在、世界で「天才」と評される連中は、私に言わせれば、視野の狭い単なる「盲人」の一人にしか思えません。