数学や化学、物理学などと違い、文学は直ちに生活の役に立たない趣味の分野だと思われているようです。

 

文学の最大のテーマは

 

人間とはどういう生き物か?

 

という極めて抽象的な問いです。

しかも、この問いには「正解」が存在しません。

できるだけたくさんの作品を読み、作者ごと・作品ごとに提示される(時には矛盾する)解答を自分の中で咀嚼・消化し、自分なりの「正解」を探すしかありません(哲学も似たようなテーマを扱い、重なる部分も多いのですが、狭い範囲を深く掘り下げていく哲学に比べ、文学のほうがより一般性・普遍性を備えています)。

 

たくさんの本を読むのは、視野を広げ、自分とは異なる多面的な意見を取り込むためですが、頑張って自分なりの「正解」にたどり着いたところで、食べ・働き・寝るという実生活には、ほとんど影響を与えない。

……確かに実用的な学問とは言えませんね。

 

 

でも、そんな文学が力を絶大な発揮する場面があります。

それは、組織や集団の舵取り役を任されたときです。

 

率いる集団を望む方向へ導いていくには、やはり

 

人間とはどういう生き物か?

 

を理解していなければいけません。でないと、必ず失敗します。

恫喝や暴力で指示・命令を与えても、人は素直に従いません。むしろ反発を招き、反対方向へと進んでいってしまいます。

人々が自ら望んで向かうようにするのがリーダー(指導者)の役割なのです。

 

 

アメリカで「焚書」が進んでいるとか。

もっとも、「焚書」という表現には明らかに政治的意図があり、実際は「禁止」程度のようです。

 

「焚書」は、文字どおり実際に書物を火にくべるパフォーマンス。さすがに現代では、そんな真似はできません。

そこをあえて「焚書」と書くことで、現在の共和党政府を中世のキリスト教会やナチスとダブらせようとするマスコミの印象操作以外の何物でもありません。

 

ちょっと脱線しますが、こういう「煽り記事」を書く三流(四流? 五流?)ライターを、こながは心底軽蔑します。

ただただ閲覧数を稼ぎたいのでしょうが、才能やセンスのかけらもありゃしない。

エッセイや小説ならともかく、報道は客観的事実を伝えるのが使命であり、余計な装飾は一切要りません。素直に「禁止」と書けばいいだけで、わざわざ「焚書」などという大げさな語句を持ち出す必要がないのです(それとも「俺って難しい言葉を知ってるんだぜ!」と自慢したいのかしら)。

 

 

とはいえ、特定の書籍を禁止する行為は、紛れもなく「言論弾圧・思想統制」です。

この点については、トランプ以下共和党政府の政策は明らかに誤っています。

ここで注目すべきは、「自由」を掲げる共和党が、なぜこのような愚かな行為をしているのか、です。

 

そのきっかけは、前バイデン民主党政権にあります。

 

皆さんもご存じのとおり、コロナ騒動の際、民主党政権はあらゆる手を使って「言論統制」を行いました。

これまでは「暗黙のタブー」であった「反対者の口封じ」を、いとも平然と破ってしまったのです。

これがトランプにとっては「格好の口実」となり、「やつらがやったのなら俺もやる!」となってしまったわけです。

 

 

私はこのブログで繰り返し

 

自分の自由を守りたければ相手の自由を守れ

 

と述べてきました。

 

相手の自由を奪えば、いずれ自分の自由も奪われることになる

 

と。

その予測どおり、世界は今、リベラルが弾圧される流れになっています。

つまり、リベラルのやり過ぎが、逆に自分の首を絞める結果となったということ。

 

 

私にその予測ができたのは、ひとえに

 

文学を学んできたから

 

に尽きます。

 

もちろん

 

人間とはどういう生き物か?

 

の問いに明快な「正解」を持っているわけではありませんが、少なくとも文学を学んでいない人よりは、

 

人間にはこういう傾向があるようだ

 

という点は理解しているつもりです。

だから、この先世界がどんな方向に向かっていくかは、なんとなく予想がつくのです(外れることも多々ありますが)。

 

 

最近、日本国内で凶悪な事件が増え、急速に治安が悪化しているようです。

引き金となったのが、「外国人犯罪者の不起訴多発」にあることは間違いありません。

個々の事件の内容がわからないので、不起訴になる十分な理由があったのかもしれませんが(検察はなぜか理由を明かさない)、報道される部分だけでは

 

外国人なら何をやっても許されるのか

 

と曲解されても仕方ありません。

 

政府や知事は、

 

日本人は穏やかだから、外国人が不起訴になっても影響されることはないだろう

 

とタカをくくっていたようですが、これこそ

 

人間がどういう生き物か?

 

をまるでわかっていない証拠です。

 

一見穏やかな日本人の中にも、内心に不満や鬱憤を抱えている「犯罪者予備軍」は大勢いて、彼らは日夜、暴力を解放する口実を探しています。

その口実を与えてしまったのが、政府や知事なのです。

 

外国人が許されるなら、日本人の俺だって放免されて当然

 

というのが典型的な犯罪者の思考パターン。

いや、犯罪者に限らず我々だって、

 

ここは駐停車禁止だけど、みんなが停めてるから俺も大丈夫だろ

 

と考えがち。

もし駐車違反で切符を切られたら、

 

あいつもそいつも停めてるじゃねえか!

何で俺だけ捕まえるんだ!

 

って怒るでしょ?

 

人間に限らず、ある程度の知能を持った動物が不公平・不平等に激しい怒りを示すことは、数々の実験で明らかになっています。

よって、治安を守るには、まず社会が一定程度の公平性を備えることが重要なのです。

 

政治家にしろ経営者にしろ、いわゆる上級国民と呼ばれる連中は、「資産額=人間の価値」という盛大な勘違いをやらかしているせいで、「自分とその他庶民は違う」とうぬぼれています。だから、「庶民は切符を切られようが、俺様は無罪で当然」「おまえらが庶民どまりなのは、俺みたいに努力しない自己責任だ」と考えているのです。

 

でも、実際は違います。

彼らが社会的成功を手に入れられたのは、才能でも努力でも何でもない。ただ単に

 

運がよかった

 

だけの話です。

たまたま良いときに良い場所にいただけにすぎません。

 

世の中には、はるかに才能があり、何十倍も努力した人間が星の数ほどいます。そんな人間が成功をつかめなかったのは、不幸にも運が悪かったから。

それこそ、黄色信号で横断歩道を渡ってしまったか、立ち止まったかの数分の差で、人生ががらっと変わってしまうことだってあるのです。

 

 

とにかく、不公平な社会では犯罪が増え、治安が悪化し、いずれはその社会自体が崩壊していきます。

我々が目指すべきは、

 

より公平な社会

 

です。

それは共産主義のような単純なものではありません(共産主義は別の不公平を生む)。

 

こうしたことを理解するために

 

文学

 

が存在しているのです。