この事件をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

自己啓発セミナーと名乗りながら、実態は「新興宗教団体」であったライフスペースの「教祖」が、ミイラ化した「信者」の遺体を「まだ生きている」と言い張った事件です。

 

この事件を知ると、私が常々取り上げている「言葉の定義」がどれほど重要かがおわかりいただけると思います。

 

「死」とは、いったいどういう状況を指すのでしょう?

もちろん「死の3兆候(呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大)」を示し「不可逆的(元に戻らない)」状態であるなど、医学的な「定義」はありますが、しょせんは人間が勝手に決めた「恣意的基準」です。

現在は、科学の発達に伴い、「生と死」の境目がどんどん薄れつつあります。「生と死」は明確に区別できるものではなく、「連続した状態」であるという考え方が主流になりつつあるのです。

 

まず、ライフスペースの言い分を決して認めるものではありません。判決にあるように、これは明らかに「未必の故意による殺人」であり、「まだ生きている」なんて詭弁もいいところ。

ただ、「生と死」に万人に共通する「定義」がない以上、真っ向からそれを完全否定できないのも事実。ミイラになっても「まだ生きている」と「定義」している人間の考えを改めさせることはできません。単なる「受け止め方の違い」になってしまうからです。

 

この世界には、三者三様、十人十色、タデを好む虫もいて、人それぞれの考え方があります。かといって、誰もが好き勝手に行動したら社会が崩壊してしまうので、適当なところに「共通認識」を置かなければなりません。

私は、上記ライフスペース事件から得られた教訓からも、「言葉や概念をきちんと定義し、主観的判断ではなく客観的事実に基づいた基準」を持たなければいけないと考えています。

 

 

前代未聞の19万通のパブコメを汚れた足で踏みにじり、感染症対策行動計画の閣議決定が強行されました。

岸田は「(緊急事態宣言は)科学的知見が不十分でも構わない」と発言したそうです。

つまりは、この4年間を総括・検証し、将来に向けて何がしかの教訓を得る気もいっさいないと。
「ワクチン被害者」は完全な泣き寝入りとなるわけですね。

 

この思想は、ライフスペースの代表者とまったく変わりません。科学的知見を無視するということは、たとえミイラになろうとも、「俺が生きているといったら生きている!」と言い張るのと同じです。

「あらゆる政策判断には最新の科学的知見を据えなければいけない」という私の価値観とは真逆です。彼とは未来永劫、絶対に分かり合うことはないでしょうね。

まあ、IQが30違うと会話が成立しないというので、そもそもからして話にならないのですが(私と彼と、どっちが30高いか低いかはご想像にお任せします)。

 

経歴によれば、岸田は早稲田の法学部卒だそうですが、少しでも法を学んだ者なら絶対に判例として知っているはずのライフスペース事件を知らないのか、事件の持つ意味をまったく理解できないかのどちらかなのでしょう。

 

というわけで、岸田は、アルキメデスに始まりニュートン、ガリレオ、アインシュタインと、人類が何百年、何千年もかけて積み上げてきた「科学的知見」という貴重な財産を、何浪かしてようやく早稲田に合格できたような「科学のど素人」の分際で、勝手に「破棄宣言」をしてくれました。

 

私にとっては、「陳腐なファシズム」ももちろんですが、「科学の否定」が何より恐ろしい。

「ヒトであることの放棄」にほからならないからです。

 

 

私は、てっきり現在は2024年だと思ってたのですが、知らない間にタイムスリップして、11世紀の1024年「暗黒の中世」に来ていたようです。申し訳ありませんでした。

ここには「科学」は存在せず、教会が「絶対的権威」だったころと同じで、「権力者の信仰」ですべてが決まってしまうらしい。

再び太陽が地球の周りを回り出し、感染症はバクテリアやウィルスのしわざではなく、「魔女(反ワク)の呪い」のせいで「瘴気(ネット空間)」から自然発生的に沸き起こるのだそうです。

 

 

そんなわけで、政権交代が起こらない限り、このブログがある日突然削除されることはほぼ確実となりましたが、今こそ、私は声を大にして言いたい。

 

それでも地球は回っている

 

と。