常々、「疫学的な後ろ向きの統計調査」を除き、
「医療に数学はなじまない」と考えています。
不確定要素、「変数」があまりに多すぎるからです。
これが「医学は科学ではない」とされる要因の一つです。
そう聞くと、驚かれる方もいるかもしれませんが、
科学を勉強した人には「常識」です。
医学は、厳密な意味では「科学」たりえません。
80億人の人間がいれば80億通りのDNAが存在します。
どれ一つとして同じものはありません。
いわゆる「個人差」です。
だからこそ、「DNA鑑定」という手法が成立するわけです。
そのわずかな遺伝子の違いが、病気に対する感受性や薬効を左右します。
同じ病気にかかっても、数日で回復する人もいれば、重症化・死亡する人もいます。
ある薬は、一部の人には劇的な改善効果をもたらすのに、別の人にはまったく効きません。
その理由は、3億対もあるDNAのほんの1か所が違っているだけだったりするのです。
これから科学が発達すれば、そうしたメカニズムが解明される日が来るかもしれません。
「個人差」があるがゆえに、厳密な比較対照試験ができません。
ある薬を投与して患者が回復したとしても、その薬が万人に通じるものかどうかは不明。
その患者に、たまたま特殊なDNAの配列があったおかげかもしれないのです。
だから、大人数の被験者を使い、それを複数のグループに分け、「パーセンテージ」で比較するしかありません。
もし「高確率で効果が期待できる薬」があったとしても、今目の前にいる患者にも効くかどうかは、実際に使ってみるまでわかりません。
あなたも、病院で医師に「薬を変えてみましょう」と言われた経験があるのではないでしょうか。
というわけで、「科学」の重要な柱である「検証」で同じ結果を得ることが難しく、実験者によって正反対の結果が出てしまうことさえあるのです。いわば「普遍性の欠如」です。
誰もが同一の結果を得られなければ、「科学」とはみなされません。
また、医学的な実験には、どうしても「倫理的な問題」がつきまといます。
命に関わるような病気があり、ある治療法の効果・効能を調べるには、本来なら、一群には治療を施し、対照群には治療を施さないという方法を採らなければなりません。そうやって死亡率を比較しなければならないのです。
その結果、治療を施された群の死亡率が有意に低ければ、効果・効能は証明できますが、治療を受けなかった群は、みすみす見殺しにされたことになります。
反対に、治療を受けなかった群は回復したのに、治療を受けた群が全員死亡してしまうことも考えられます。「消極的」か「積極的」かの違いがあるだけで、どちらも「殺人」に該当する行為です。
というぐあいに、人体で実験を行うことができないので、動物を代わりに用いるわけですが、近頃は愛護団体からの抗議が強く、それもままならず。それより何より、動物ごとに免疫作用の違いがあるため、単純にスライドして人間に当てはめることができません。
例えば、ワニは驚くほど強力な免疫機能を持っていることが知られています。ワニは、どれほど不潔な環境下でも、感染症にかかることがほぼありません。この機能をヒトに応用できないかという研究も行われています。
実験では、ヒトに近いとされるサルやブタの細胞を実験に使用するのですが、やはり実験動物にも個体差があり、パターンは無限になります。
そのほかにも、DNAの配列だけでなく、そのときの気分・精神状態が治療効果に影響を与えることもわかっています。気分がいいときと悪いときでは、体内で分泌されるホルモンの種類や量が違ってくるからです。
これで「変数が多すぎる」という理由がおわかりいただけたと思います。
変数が多いということは、どんなに超高性能のスーパーコンピューターを用いても、絶対に「予測不可能」ということになります。
こうしたことを知っていれば、O身会長やN浦教授などの予測がことごとく外れるのは当たり前ですし、そもそも「医学の限界」をきちんと理解しているなら、単純な計算式で下手な予測を出すことすら(研究者の良心として)ためらわれるはずなのです。
メディアの予測を信用することはできません。しかも、彼らは小学校で教わったはずの「グラフの見方」さえ覚えていないようです。
「専門家」の方々は、ちょうちんメディアに取り上げられるうちに、自分を「神を超越した天才」と思い込むようになったようです。
私は、テレビに登場する「自称専門家」の予測は、「競馬評論家の穴予想」以下だと考えています。
「大外れでもj反省も謝罪もしない」ところが実にソックリです。