「進化論」はしばしば、
最も有名で最も誤解されている理論
と評されます。
その理由は、
自然淘汰の本質が我々の直感に反する
からと言えるでしょう。
ヒトは論理的・合理的に事象を捉えようとしますが、淘汰や進化は、ある意味「行き当たりばったり」の運任せ。
「なぜこうなったか」の理屈は、どれも後づけになってしまいます。
光の届かない深海に棲む生物は、
・わずかな光を増幅するために、「タペタム」のような特殊器官を発達させたもの
・光をまったく当てにせず視覚を捨て、それ以外の感覚器官を増幅させたもの
と、正反対の2つに大別できます。
まったくの偶然で生じた遺伝子の変異が異なる結果へとつながっていくわけですが、この「ギャンブル性」が、我々の心情的に納得できない。
まるで正解が2つ(しかも真逆の)ある試験問題のように、一貫性が欠如しているのです。
さらにいえば、本来なら生存に不利で致命的であった変異が、その後の別の変異によって見事に補完され、想像もしていない新たな特質を生み出すことさえあります。
神様ですら予見することは不可能でしょう。
そもそも「進化・退化」という訳語がまずかった。
そこには、「進化したもののほうが優れている」という価値判断が伴います。裏返せば、「退化したものは劣っている」と思われてしまうわけです。
でも、「進化」も「退化」も、実際はただの「変化」に過ぎず、水平面での方向性こそあれ、上下(優劣)の方向性はありません。「退化」が「進化」である例も、よくあります。
生存競争に敗れ、餌の少ない深海へと追いやられたシーラカンスのような魚は、環境変化が少ない深海にいたからこそ、恐竜を絶滅させた隕石衝突を生き延び、種として現存しています。
いわば「負け組」であったことが幸いして、究極の「勝ち組」へとなったわけです。そして、「進化をしなかった」ことにより、今では人間に保護されるようになりました。
けっきょくは
何でもあり
が進化の本質。無数の「試作品」の中で、たまたま環境にマッチングしたものだけが生き残り、あとは淘汰されていくということです。
とにかく「奥が深い」のが生命進化。汲めども尽きぬ深井戸のようなもの。
逆説的ですが、進化「論」を理解しようと思ったら、「論理性」を捨てる覚悟が必要です。
しょせん、すべては運
と割り切らなければいけません。
我々は
強い意志(と勤勉性)を持てば未来を変えられる
と教え込まれていますが、現実はそうではありません。
未来がどうなるかは、意志や行動とはいっさい関係なく、ただただ「運次第」なのです。
まさしく「我々の直感に反する現実」ですね。
さて。
「熊を銃殺するのはかわいそう」という声があります。
「罠で捕まえるほうが人道的(熊道的?)」であると。
その結果、どういうことが起こるでしょうか。
簡単に罠にかかる「警戒心の薄い熊」が淘汰され、罠を回避する「狡猾な熊」が生き残ります。
罠や檻が「淘汰圧」となって、「熊の進化(変化)」を加速するのです。
結果的に、人間が犬や猫などの愛玩動物を「品種改良」するのと同様、熊を人間にとって「より脅威的存在」へと育てていくようなものです。
私が見る限り、現在の「熊問題」をそうした長期的視点で考える「専門家」はいないようです。