富を得ることは悪ではない

 

だが、必要以上の富を独占することは悪である

 

 

人類の歴史もどうやら末期に来ているようです。

 

人類は地球の歴史で初めて、

 

愚かさと強欲さ

 

のために絶滅する種となるでしょう。

 

 

共産主義は失敗でした。

 

それを目指した人々が、

 

人間とはいかに卑怯な生き物であるか

 

をまったく理解していなかったからです。

 

 

では、資本主義は成功したでしょうか?

 

資本主義もまた明らかに失敗であり、間もなく終焉を迎えます。

 

 

市場が拡大していく間は、資本主義はそれなりに機能します。

 

ですが、グローバル化が進み、史上は限界まで広がり、限られたパイの争奪戦となった今、完全に機能不全に陥り、社会を、ヒトという種自体を食い尽くそうとしています。

 

資産家は

 

金を稼ぐことが正義

 

という神話を創り上げ、自己正当化を図ってきました。

 

この誤った思想は、アメリカ、中国、日本……先進国から発展途上国まで満遍なく、その国民の一人一人に至るまで、福音のように広がり、浸透していきました。

 

しかし、その福音は「悪魔の福音」だったのです。

 

彼らは「幸福」という抽象概念を理解できず、「数字」という具体に目に見える(自分たちに理解できる)物差しですべてを規定し、「お山の大将」になりました。

 

もっとよこせ、もっとよこせ!

 

冨を吸い上げ続ければ、いずれは自分の玉座を支えてくれるしもべが一人もいなくなってしまうことに思い至らずに。

 

なぜこんなことになってしまったのか、をきちんと書いていくと、一冊の本になってしまうので、この辺でやめておきます。

 

 

人類が生き残る唯一の方法は

 

独り勝ちを許さない(冨の独占を禁ずる)こと

 

です。

 

多額の資産を持つ者から多額の税金を徴収し、みんなで分配する。

 

もはやこれしか道はありません。

 

 

人類が生き残るためには、世界中が足並みをそろえなければいけません。

 

一国が税制度を変えたところで、資産家はタックスヘイブンの国・地域に逃亡するだけ。

 

なので、世界中のすべての国がいっせいに累進制を強化し、どこにも逃げられない状況をつくる必要があります。

 

 

稼いでも税金で取られるならやる気をなくす

 

というのも、資産家が吹聴するデマの一つです。

 

幾多の心理学・行動学の実験で

 

モチベーションと金銭の多寡は相関しない

 

ことが明らかになっています。

 

 

人が求めるのは「他者からの評価や尊敬」です。

 

裏返せば、資産家はそういう「本当に欲するもの」を手に入れられないがために、代わりに

 

大金を稼ぐことが正義

 

というウソをでっち上げ、大金を貯め込むことで

 

他者の羨望

 

を得ようとしているのです。

 

 

でも、「羨望」は決して「尊敬」ではありません。

 

その証拠に、彼らが何らかの不幸に遭って資産を失ってしまったら、さんざんおべっかを使っていた取り巻きは決して隙の手を伸ばそうとはせず、逆に後ろ足で砂をかけようとするはずです。

 

 

 

 

 

「守株待兎(しゅしゅたいと)」という四字熟語をご存じですか?

 

野原を猛ダッシュで駆けてきた一匹のウサギが切り株を避けられずに激突し、哀れ昇天。たまたまそれを見ていた農夫は、まったく労せずして、高額で売れるウサギの死体を手に入れることができました。
農夫は「これで一生働かずに暮らせる!」と考え、畑仕事をいっさいやめて、毎日切り株のそばで次のウサギが来るのを待つようになりました。

 

もちろん、そんな奇跡のような幸運が再び訪れるはずもなく、農夫は世間の笑いものになった、という故事に由来する、「旧来の手法に固執し改めようとしないさま」や「偶然に期待する愚かさ」を指す言葉です。

 

珍コロ以降、さまざまなウィルスがメディアで取り上げられるようになりました。最近もまた、「ハンタウィルスによるパンデミック」の煽りが始まったようです。

 

そもそも珍コロですら「百年に一度のパンデミック」という触れ込みだったくせに、毎年毎年(飽きもせずに)「百年に一度」を繰り返しているところを見ると、きっと計算ができないのでしょう。

 

次々とメディアが「新しいウィルス」を取り上げるたび、私は決まって、冒頭に述べた「守株待兎」のエピソードを思い浮かべます。
たまたまうまくいったシナリオにいつまでも固執し、再び同じことが起きないかと期待する。「客船内で感染発生」なんて、まさに絵に描いたような「二番煎じ」。

 

「メガファーマ」ならぬ「メガファーマー(農夫)」ですね。

 

 

もしかしたら、一連の騒動を仕掛けた「支配層」たちは、あのワクチン特需が(彼らにとっての)幸運が幾つも重なった賜物にすぎなかったことに気づかず、おのれの才覚で儲けたような気になっているのかもしれません。
自己の評価を過大視するのは、まさしくバカの証拠です(ダニング・クルーガー効果)。

 

私が世界経済フォーラムを「バカの巣窟」と断じるのは、上記の理由によるものです。

そうありたい、と思っていても、なかなかうまくいかないのは私も同じ。やはり理想と現実は違うもの。

でも、できる限り「感情を優先させず、(時には意に反することであっても)合理的な解釈のできる人間であれ」と自分に言い聞かせています。

 

 

道交法の改正で自転車に乗ることが難しくなり、YouTubeなどでも注意喚起の動画がたくさん上がっています。

なぜこのような「最低の改悪」が行われてしまったのか。その背景は予想がつきます。

 

①ごくごくまれに(←ここ重要)自転車が原因の人身事故が発生する(典型的なパターンは、速度を出し過ぎた若者のチャリが年寄りにぶつかり、大けがを負わせたり命を奪ってしまうタイプの事故)。

 

②テレビがその単発事故を取り上げ、例によって不必要に大騒ぎ。わざわざ街中で高齢者に「自転車で怖い思いをしたことはありますか?」などとインタビュー。

高齢者になるほど「相手に気に入られたい」という気持ちが強くなるため、聞かれたお年寄りはインタビュアーの意を酌んで、ことさら大げさに「若者の」自転車の危険性をアピールする。もちろん中には、ウケ狙い(テレビに映りたい)のための作り話も混ざっている。

 

③そのニュースを見たお年寄りが、自分はこれまで一度も怖い思いなどしたことがないのに、本当にそんな体験があったような錯覚を抱くようになり、あちこちで「妄想の危険体験」をしゃべり始める。

 

④そうしたお年寄りの「妄想話」が広まってくると、地方議会の田舎議員がさっそく聞きつけ、「このテーマを取り上げれば票になる!」と、(与野党問わず)所属政党の地方支部に「自転車の取締り強化」を進言する。

 

⑤地方支部も「これは票稼ぎに使える」と選対本部に伝え、ついには国会議員が法務省に法改正を迫るようになる。

 

⑥言われた法務省で役人の会議が開かれ、幹部から「議員先生のご機嫌を損ねないよう何か考えろ!」と指示が飛ぶ。ここで「いや、現状のままでもそんなに問題ないと思いますが……」なんて言うようでは、公務員の世界で出世は無理。今度は下っ端の役人が上役に気に入られるために、「自転車を厳しく取り締まったらどうですか?」と提案(世の中で最も迷惑な存在が、こうした「やる気のあるバカ」)。

 

まともに物を考えられる人間なら、そこで一度立ち止まり、「その法改正がいかなる社会的影響を与えるか?」を想像するところですが、そんなことをしないのが「公務員の鑑」。大事なのは「何でもいいからアイデアを出して上司の顔を立てる」ことだからです。

 

欧米ではよく、「うまくいっているときは何も変えてはいけない」という言い方をしますが、公務員の世界ではそんなのは通じません。「何もしない=現状維持」では、よっぽどやる気がないか発想の貧困なやつ、と思われてしまい、立身出世に響きます。

 

話がそれますが、賢い人間は「アイデアの宝庫」と思われがちですが、そんなことはありません。「考えるエネルギー」を節約するために、むしろ「余計な頭を使わないこと」が賢さのあかしです。なので、ここぞというとき以外は「現状維持でいいんじゃない?」と考えるのが高知能の証拠。

 

閑話休題。

なので、内心では「その改正は失敗だぞ」と思う同僚がいても、絶対に口に出すことはしません。上司には不興を買い、仲間(組織)の足を引っ張るやつと取られかねませんし、予想どおり法改正が失敗したところで、自分には何の責任もないからです。それどころか、その失敗で提案者・発案者の評価が落ちれば、相対的に自分の評価が上がるのです。まさに「沈黙は金」。

 

真に優れた官僚なら、うるさくせっついてくる票目当ての議員に毅然と対応し、きちんと理論立てて「幾つかの稀な例だけで法改正すべきではない」と突っぱねるべきなのですが、そんな優秀な人間なら、そもそも公務員になんかならんわな(笑)

 

⑦何であれ「権力が増す」ことなら賛成するのが「司法」なので、警察庁はこの改正に大賛成。

というわけで、今回の「史上最悪の道路交通法改正」が成立したという次第。

 

とはいえ、現実的にこの法律の厳密な運用は不可能です。

だって、自転車に乗っている人の8~9割が検挙されることになってしまうから(その大半は、投票に行かない若年層ではなく、選挙に足を運ぶ中高齢者。実際に危険な自転車の乗り方をしているのは、若者でははなく年寄りなのです)。

そんなことになれば、大多数の国民が怒り狂い、議員は票を稼げるはずだった法改正で逆に票を失うことになります。最初に「何とかしろ」と言い出した田舎議員どもは、(しょせんは「恥」の漢字も書けない連中ですから)くるっと手のひらを返して「法改正を撤廃しろ!」と騒ぎ始めます。

 

 

「合理性」というのは、自分の好き嫌いに関係なく、きちんと根拠に基づいた判断を行うことです。

 

①青切符制度を設けるなら、まず自転車自体を「免許制」にしなければいけません。なぜなら、免許を保持しない人は各種の標識すら学んでいないからです(一般常識として知っているだろうというのは駄目。一律に「学習する」ことが必須)。

 

②何歳以下・何歳以上という例外規定を設けては駄目。それなら同じ理屈で、若葉マーク・紅葉マークや、そもそも自動車運転免許を保有していない(つまり無免許運転の)場合は、信号無視、速度超過、駐車違反……すべて無罪にしますか?

 

③自転車に車道を走らせるなら、安心安全の担保として、妨げとなる自動車を片っ端に検挙しなければいけません。ワオ、日本中犯罪者だらけになりますね!

 

④「改正法施行前と後の事故件数の変動」データを取る。

私が思うに、改正法を本気で運用すれば、自転車事故は急増するでしょう。それも「歩行者とぶつかりそうになって怖い思いをした」程度では済まず、車にはねられる死亡事故が全国で激増します。

こうしたデータをきちんと比較しなければ、「自転車を厳しく取り締まれば事故が減る」というのは、単なる希望的観測にすぎません。

 

 

私に言わせれば、今度の法改正は

 

法律のてい

 

をまったくなしていません。

「現場の判断に任せる」という恣意的要素だらけだからです。そんなものは、とても「法治国家の法律」ではありません。時計の針を百年前に巻き戻るようなもの。

「合理性」には「一貫性・普遍性」が求められるのです。

 

 

自転車問題一つを取り上げても、この国がもはや国家として機能していないのは明らかです。

政治家や官僚といった国の上層にいる人間が低能・無能ばかりで、自己保身のために真に優秀な人材を排除し続けてきた結果がコレなのです。