~東京へ~

1990年4月、
『東京コンセルヴァトアール尚美(しょうび)』
に入学しました。

初めての独り暮らし。

そして・・・とにかく貧乏暮らし(笑)

東京都北区、JR赤羽駅から徒歩5分、

家賃は・・驚きの二万円です(^^)

風呂無し四畳半、トイレ共同です。

その名も、
『すみれ荘』7号室💕💕💕

叔母(父の妹。父と唯一と言っても良いかな、仲の良かった弟妹です)が赤羽に暮らしていて、アパートを探してくれたのです。

この叔母も大変苦労をした方で、この人の話でも1話ぶん書けるかもしれないのでこのくらいで・・・

その叔母が「これから都会で暮らすなら最低限の雨風凌げる所から始めて、生活水準をステップアップしていかないと此処では生きていけないよ!!」との考えでした。

常に向上心と目標を持つことを強く教わりました。

その叔母も既に他界していますが、東京生活のスタートで、とても鍛えてくれました。

最低限の仕送りだけでしたから生活はとても苦しかったですが
『自分の城』があるのは嬉しかった!

そして音楽学校の生活が始まります。

当時のホルン科の先生は
黒澤勝義先生(当時読響)と

大野良雄先生(当時N響)
のお二方でした。

大野先生もその年から着任され、僕は大野先生のクラスへ。

レッスンは冷静で穏やかな口調でしたが、出来ない箇所、苦手な箇所は出来るまで徹底する。
エチュードも前には進まない。

僕はコプラッシュのエチュードの、とあるパターンが大の苦手で(今でもあります。なので仕事が殆ど無い今、練習しています)、徹底的に捕まりましたが、結局先生からのOKは貰えぬまま、先生は2年間で退任されてしまいました。

・・・しっかり取り組めなくて先生には本当に申し訳ない思いでした。
(その数年後にN響にエキストラで載せて頂き、そこで大野先生お会いしてお詫びしたことがあります。でも先生は穏やかに「ウチ(N響)のエキストラに来るまでになったんだから良く頑張ったじゃない」と声を掛けて頂き、感激は一生忘れません)

学生時代は、毎日楽器が吹ける環境に感謝し、
(時には授業をサボってでも練習してました🙇)

練習館が終わる時間まで残って練習していると、先輩方が食事に誘って下さいます。

でも僕にはそのお金はありません。

父からアルバイトを許されなかったのです。

1度、先輩に誘われ近くの大手ハンバーガーチェーン店でアルバイトを始めましたが、父から電話で「お前にハンバーガーを焼かせる為に東京へ出したのではない!1日吹いて¥100しか貰えなくてもホルンで稼げ!!」と、強く言われていました。

ただし、先輩方も「知ってるよ。何とかなるさ」
と連れて行ってくださいました。
(植木等の歌そのものです)

本当に何とかなりましたが🙇🙇🙇
面白い事言うことや宴会芸(笑)を出すことが引き替えのような状態でした。

それでも色々とギャグやパフォーマンスをして少しずつ先輩方に名前を覚えて頂き、講習会などのお仕事に声を掛けて頂けるようになりました。

その中の1人に、管打楽器の学生と仲の良い
ピアノ科の先輩がいらっしゃいました。

・・・そう、現在の配偶者さんです。

その日(当時僕は2年生。確か夏ですね)も🙇🙇先輩方に食事に誘って頂き、

この方と初対面。ご挨拶すると
「君、知ってるよ。ホルン上手いんだってね!
皆が言ってるよ」と💦

肩をすくめていると、

「今度の(9月)実技試験は曲は何を吹くの?伴奏、してあげるよ!」
僕「SchumannのadagioとAllegroです・・」
彼女「え~、吹けるの??」
僕「頑張ります・・・」

ここから始まりました。。。😅

*下級生時代に毎日のように違う先輩方が夕食に連れて行ってくださり、体重が増加。
次第に心にも甘えが出てしまい、感謝が薄れはじめた頃に当時のテューバのT屋さん
(今は浜松市の有名高校の吹奏楽指導者)から
「当たり前だと思うな!だからお前は駄目なんだ!」
とお叱りを受けました。
その通りでした。キチンとお断りすることもしないと自分が無くなる。叔母の教えも高校で学んだことも忘れてる・・・
自分を叱りました!

―続く―