~中学3年生→福岡へ~
プロの生演奏にも触れ『ホルンが好き』に変わってきました。
中学3年生になり、部長のTくんはじめMくん・Iくんや女子部員の皆と何度も
『協議(話し合い)』
を持つようになりました。
顧問が若い先生に変わり、部活動そのものに色々と大きな変化があったのです。
4人とも「将来はプロの音楽家になりたい」
と強く思い始めました。
ですがさて受験となり、それぞれに考える道が違っていました。
(お互いはその『違い』は認めあっていました)
僕だけが『県外の高校』中1で聴いた福岡の高校への希望が強くなりました。
理由は幾つか、真面目な理由も不純な理由(そっちが正しいかも😅)もありました。
不純な理由は
♪吹奏楽部の仲間と離れるのは寂しいが、クラスなどではやはり僕は浮いてしまっていた(どうしても群れるのが嫌い)ので、環境を変えたかった。
♪県立高校の入試よりも1ヶ月以上早かったので先に結果を残して他の皆よりも早く受験勉強を終わらせたかった。
♪その高校に行った先輩から、練習環境や使ってる楽器の充実度、そして何より翌年度に海外演奏旅行があることを聞いた。
♪雪が見たかった(笑)
真面目な理由もあります。
♪両親共に50代半ばになり、孫の世話もしていたので、僕が家を出ることで食事や家事の負担と金銭面の負担(特待生制度があり、幾つか条件をクリアしなくてはなりませんでしたが、入試の平均点を聞き、それ以上の点数なら3年間の授業料全額免除になることを聞きました。自宅に居るより遥かに安く済みます)を減らしたかった。
♪寮生活をすることで、いままで『歳の離れた末っ子で長男』という、非常に甘やかされた環境に居たことを自覚していた(おそらく、周りから虐めに遭うのはそんな『甘さ』が出ていたのだと思います)ので、それを叩き直したかった。
♪中1の時に聴いたバンドの音が忘れられず
「あのバンドで吹きたい。学びたい」
と強く思っていた。
です。
ところが思わぬハードルが・・・
顧問の先生(音楽の教員ですが初任校でした)がどうしても反対するのです。
当時の風潮は
『演奏家なんてなれる訳がない。音楽に携わるなら教員を目指せ』
が非常に強く、その先生もまさにそれ一点張りです。もはや僕の両親をも巻き込んで喧嘩越です(笑)
「先生は僕の夢を潰してでも僕に何を伝えたいんですか?」
とまで言い放ってしまいました💦
・・・B型です(笑)
基本は能天気ですが、特定の拘り&コレと決めたら絶対に曲げません。
(今は、自分が発信しても直ぐに他人の意見を受け入れるのが得意な人になりましたが🤣🤣)
結局、顧問との話は平行線。
特待生推薦入試を受けに行くために
推薦状は必要です。
結局、担任の先生から推薦状を書いてもらいました。
中3の12月に定期演奏会(てだこホールの前身・浦添市民会館にて)で部活を引退しても、個人練習は続けていましたが、
1月になり福岡の高校の吹奏楽部の指揮者、
僕の人生の恩師となる鈴木孝佳先生が面談に来られました。
まだ30代です(^^)
その時も吹奏楽部の顧問は現れず、担任の先生が立ち会って下さいました。
そして2月に入試のため、空路福岡へ。
着いたら雪が積もってました😅
(行きたかった動機が既にひとつ達成されました・・・🤣)
他に沖縄県からは
Y.Tくん(仲西中。打楽器)
K.Yくん(那覇中。打楽器)
と、僕の計3人。
引率は沖縄県吹奏楽連盟の当時の理事長、
屋比久勲先生でした。
先生から「キミ、知ってるよ。マーチングコンテストでソロ吹いたよね。上手だった。アンサンブルコンテストの金管五重奏も聴いてたよ。良く吹くね。キミは直ぐに戦力になるんじゃないかな。でもあの学校はキツいよ😅」
とお言葉を掛けて頂きました。
勿論、覚えて下さった事と誉められた事は素直に嬉しかったのですが「キツいよ😅」の意味が
当時の僕にはさっぱり解りません(笑)
入試の際に三人を大宰府天満宮に連れていって下さり、一緒に合格祈願。
そして名物の『梅ヶ枝餅』をご馳走になりました m(__)m
屋比久先生と、当時首里中にいらしてた久高先生とはこれから個人的にもとても長くお付き合いさせて頂く事になりますが、それはまた後々に・・・
高校入試は合格し、3月にまた高校吹奏楽団は沖縄公演に来ました。
練習を見学し、間近で聴く『鈴木サウンド』
に圧倒されました。
翌日の演奏会を聴いて、団体と共に一緒に福岡に行き、
いよいよ高校の寮生活が始まります。
好きだった女の子は居ましたが(笑)
お付き合いすることはなくお手紙だけを渡してもらうようにお願いして、新しい生活と人間関係を楽しみに福岡へ向かいました。
・・・待っていたのは凄い環境でした(笑)
―続く―