~そろそろ音楽の話をしようか~
みたいなタイトルの歌がありましたねぇ(笑)
新聞配達(の給料日😁)を楽しみに毎日過ごしていた小学校の高学年の時期ですが、
そろそろ音楽の話もせねば・・・💦
前回にも書きましたが、音楽の成績はとても悪かったです。リコーダーも鍵盤ハーモニカも試験は不合格点、合唱も先生や隣の人が歌うのに付いていく程度(俗に言う「耳コピ」的な事は出来ていましたが)でした。
ただし、音楽を聴くのは大好きでした。
(絶対に歌わなかったけど💦幼児期に絶叫した井上陽水さんの歌を家族が冷やかす[と当時は感じてました😅]し、姉たちは皆んな歌が上手かったし。僕はとてもとても・・・)
母や姉たちがレコードやカセットテープ😅
をかけて、家の中は音楽が殆どずっと流れてました(^^)
母はタンゴ中心にアフロキューバンやフォルクローレやボサノヴァ等の『中南米音楽』、
姉たちは所謂『80年代洋楽』が好きで
特にディスコ系😁音楽がよく流れていました。
(そりや当時80年代なので🤣)
アメリカの黒人系アーディスト物が多かった記憶があります。
でもアバのLPも多かったなぁ・・・
ユアサプライやChicagoとかもあった。
クラシックのLPもたまに流れてました。
小学校の音楽の授業は苦手でしたが、
観賞の授業とは別に月に1度?くらいに生徒が「好きな音楽のカセットやレコードを持ってきて皆で聴く」
企画がありました。
僕の担当になったとき、その中から家で聴いて大好きだった
EARTH WIND&FIREの『Let's groove』と
Quincy Jonesの『愛のコリーダ』を
カセットテープ(当時はクロームとかメタルとか色々出てましたね😅)にダビングして授業に持って行きました。
(好きだったから曲目まで鮮明に覚えてます)
自分は楽しくて聴いてましたが、曲が終わると先生も他の生徒も唖然・・・
場が変な空気になってました。
自分には何故そうなったか解りません。
先生は「太郎くんは家でこんなの聴いてるの?」と言いました。こんなのって何だ!!😠
(おそらくその先生も洋楽は聴いていない人だったのでしょう。とは言え多くの音楽のジャンルに詳しくなる必要はないかも知れませんが、あの時に奇異の目で僕をみた表情は忘れません。僕が今でもクラシックばかり・ホルンばかりを聴かないのはここから始まってます)
他の生徒は「お前、英語も解らんのに何でこんなの聴いてるバー?」(方言😆)の嵐・・・
・・・英語知らなきゃ聴いちゃいかんのか?😠
勿論、反論した所で多勢に無勢。
黙ってました。
その時に教師もフォローしなかったのですから。。。
またもや独自路線のワタシ(笑)
でも音楽の成績そのものが悪かったのが幸い?し、虐めに発展しませんでした。
小学校も最後の年になり、1年生の時に仲良くなったTくん(鼓笛隊に所属していました)始め、
同じく鼓笛隊所属のMくん、そして彼と仲良しだったIくんと学校で一緒に遊んだりしていました。
小学校(全校児童2000人のマンモス校でした。
浦添市は那覇市に隣接したベッドタウンで人口も爆発的に増加。校区には『公務員宿舎』と言う大きな団地群も出来ていました僕の住む地域も「ニュータウン」と呼ばれた新興住宅地でした)を卒業し、小学校の隣にある中学校へ進学。
これまた1学年50名の10クラス。単純計算で全校生徒1500人のマンモス校😅
Tくん・Mくん・Iくんが吹奏楽部に入部すると言うので僕も
「ようやく出来た友達と一緒に過ごしたい」
という至極単純な理由で入部します。
勿論、音楽の成績は超がつくほど悪かったので、入ってからは・・・・😥😥
―続く―
*これまでの【下田太郎の成分表】ですが、
自分のお話として記憶を思い起こして書いています。
誇大表現や嘘は決して書いておりませんが、
家族や友人との事で僕の記憶違いや、実際の事と若干違う『情勢』があるかも知れません。
あくまでも僕がその時に見て感じた事を書き記しております。
登場される方にご迷惑が掛からぬように配慮して書いていますが、これまでに登場した方々(殆どは家族ですが💦)に間違いがあれば翌回より随時訂正文を入れていきます🙇
(姉(次女)は浦添市への引っ越し(第3話)後も転校せず那覇市の中学校にバスで通い卒業していました🙇)