~早起き?~
前回に、夏休みの朝のラジオ体操へは皆勤賞だったと書きましたが、
宿題は全然やってませんでしたが・・・💦

今では毎日SNSに投稿する人間ですが(毎日スミマセン🙇)、夏休みの宿題の絵日記を書くのも苦手で・・・

少年野球チームも退団し、特に目的も持たずにダラダラと過ごしていました(>_<)

姉たちは3人とも働いており、僕を映画や外食に連れて行ってくれたり、両親も食べることが好きで(沖縄そばを食べるために車で60㎞離れた名護市まで行くような拘り😅)、
家族の誕生日の時は『Pizza House』
(当時は宜野湾市大山にありました。このストーリーの序章にも書きましたが、父がこのお店の起業と発展に協力したのもあり、家族のイベントはここで夕食だったのです)

我が家の食事はちょっと変わってて?

自宅でも食事は1人ずつに皿に盛って出される。幼児期に「食べるのが遅い」のも、そんな理由からでした。大皿で食べる習慣はなかったのです。冷や麦とすき焼きくらいだったかなぁ🤔
(父は東京人なのですき焼きは沖縄風の『丼もの』ではなく鍋でした😅)

なのでレストランへ行っても、料理をシェアせずに各々が食べたいものを注文する。

僕は決まって『イタリアンソーセージのpizzaの辛口』でした。何年経っても(笑)

ちょうどこの頃、後から考えると『親に恥をかかせる事』をしていました。

運動会や、月に1度程度ある『お弁当の日』
両親に
「お弁当は何が食べたいか?」
と訊かれ、僕はいつも
「ハムチーズサンド」

と答えていました(笑)
運動会の時は
「A&W(沖縄のファストフード店。このお店も今では超有名店ですが、こちらもカリフォルニアから沖縄への展開に父が協力していました)のポークサンド」
と答える(笑)

すると、クラスの女子たちが
「太郎は可哀想な人」と誤解され💦
おかずやおにぎりを分けてくれたんです。
(男子からは冷ややかな目線・・・)

何だか申し訳ない。僕は好物をリクエストして好きで食べてたんです😅

後、母に料理を作らせる手間を取らせたくないとも思ったのかも知れません。
(今でも配偶者から何が食べたいかを訊かれると「そちらの手間が掛からないもの」と答えてしまう癖があり、実は困ると注意を受けます😫🙇)

やはり末っ子。食べたいもの・欲しいものを与えられ、僕なりにうっすらと
『僕は甘やかされて育ってるんだなぁ。だから皆のように活発で強いアピール出来なくて男子たちから馬鹿にされるのかな?』
と感じ始めていた矢先、

クラスの仲良しの男子から
「新聞配達、一緒にやらないか?」
との誘い。おっ!自分で小遣い稼ぎも良いな。
と思い、一緒に【琉○新報】の販売所へ。

それまで誕生日やクリスマスで「欲しい」と言えば両親は買ってくれていました。

何か無意識に罪悪感みたいなものもあったのかも知れません。

学校から帰宅途中にある浦添市役所内の、
各科に配るだけで約60部。

先ずは夕刊から始めました。

5年生から朝刊も始めて、そこそこの月収(笑)
になりました。
好きなプラモデル(父が好きでした。と言うのも、大戦中に自分が乗った飛行機と空中戦で出逢った米英軍の飛行機のプラモデルを作る趣味があり、僕も乗っかったのです。
でも大人と違い、じっくり時間を掛けて作るなんてとても出来ず・・・)も自分で買い、
TOMIXと言う鉄道Nゲージも買い始め💦

でも給料(笑)の4分の3は定期預金へ。

『オレは中学に上がっても新聞配達するぞ』
と心に決めていたのに・・・

少しずつ変化が出てきました。

朝は早起きして朝刊を配り学校へ→授業が終わると夕刊を配って帰宅。

そう、気がつくと
『友達が居ない』
のです・・・

でもやはり話し掛けて来るのは女子ばかり、男子はやはり「付き合いの悪い奴は仲間に入れて貰えない」のです。

そろそろ音楽と・・・

まだ全く出逢いません(笑)
何しろ小学校の6年間、音楽の成績は通知表の1又は2しか取ったことがありません。
リコーダーも鍵盤ハーモニカも運指が覚えられず、楽譜は全く読めず実技試験は音すら並ばない。皆で歌うときは、今で言う『耳コピ』
で授業は何とか切り抜ける程度・・・

何で音楽と出会うんだろう?
確かにスポーツも絵も駄目、授業もなんとなく出てて、楽しみは新聞配達の給料日のみ
(おいっ!!😅)

友達も殆ど居らず、また1人の時間を楽しむ日々になりました・・・

―続く―