通勤というのは本当に無駄なモノである。在宅勤務をしていると心からそう思う。都心に通っていた前職の頃に嫌な思いをしたことは数知れない。ただでさえ人混みが嫌いな私なのに通勤ラッシュでごった返した車内は地獄絵図そのものである。若い頃は血の気も多く、殴り合いになりそうになったことも何度かある。

 

私は2020年に転職した。50歳の節目に思い切ったのである。新しい会社は都心とは逆方向に進む電車に乗って行くため通勤ラッシュとは無縁のものになった。これだけ考えても転職をして本当に良かったと思う。朝はゆっくり座って行きたいので、かなり早い時間に家を出る。もうすぐ師走であるこの時期、歩いて向かう駅までの道はお日さまが登る前でまだ暗い。最寄駅から乗る電車はガラガラで、乗り換えする駅も始発駅なので100%座れる。私は通勤ラッシュの呪縛から解き放たれたのだ。非常に良い事なのだがもう一つ、残念ながら同様の呪縛からは逃れることはできなかった。

 

帰宅時のラッシュのことである。行きはよいよい帰りは恐いパターンだ。こればかりはどうしても避けられなかった。時差出勤をして時間を前後させても良いが、できればみんなと一緒の時間に会社を出たい。そんな時間に電車に乗ると、都心に通っていた頃と同様の混雑具合になっているから困ったものである。いろいろと試してみたが、どの車両に乗っても同じで、ギュウギュウとまではいかないが、その一歩手前の状況で人格破壊されてしまいそうなのである。学生のリュックが常に私の背中に当たっていたり、後ろに立っている若者のスマホが私の肩の上乗っかって、スマホホルダー代わりにされていたり、途中で降りる他の客にわざとブツかって来られたりと、本当に大声で叫びたくなるのだ。そこで無い知恵を絞って考えた。どうにかこの帰宅時の通勤地獄から抜け出せないものか?

 

自宅と会社の間にはいろいろな路線が走っているのは知っている。しかし、乗り継いだ先の電車が確実に混んでいるということも知っている。遠回りすれば空いている路線もあるが、時間がかかり過ぎるし運賃もそれだけ高くなる。試しに何回かやってみたがなんだかしっくりこない。有料の特急に乗ったりもしてみたが、こんなことを毎日続けていたら晩酌の酒を控えなくてはいけなくなるではないか。それだけは絶対に酒、じゃなかった、避けなければならないのだ。

 

ある日、ふと思いついた。乗ったとしても絶対に通勤ラッシュにぶち当たる路線を今一度見つめ直してみたのだ。通常に乗り継ぐと、いつもと変わらない満員電車が待っているのだが、途中の駅で降りてバスに乗るというパターンを見逃していたのに気がついた。これだと会社を出て最初に乗る電車こそ多少混んでいるが、その後は確実に座って帰ることができるのではないか?そのことを仕事中に思いついた私は早速その日の帰りに検証してみた。

 

会社最寄り駅からいつもと違う路線に乗ると、まあまあ混んでいるが、普段使っている路線に比べると7割程度で全く許容範囲である。そして目的の駅で降りてバスターミナルに向かう。自宅方面への乗り場には結構な客が並んでいたが、いざバスに乗り込むと全員が座れて、しかも2、3席の空席ができたではないか。運賃はいつも乗っている路線と比べて10円高いだけである。これはいい。

 

私は、始発のターミナルから乗り込み終点のターミナルで降りるので座って帰ることが保証された。バスを降りると、そこからもう一度電車に乗るのだがその駅から自宅最寄りまでの電車はその時間、空いていてこれまた100%座れるのだ。やったぞ、私の通勤地獄がついに完全解消されたのだ。

 

バスに乗る時、早めの順番に並べた日は座席を選ぶことができる。始発から終点まで乗って行く私は窓際が絶対である。可能であれば一番後ろの席だと比較的ゆったり座れる。しかし気が付いた。一番いい席は運転手の後ろ、または前のドアのすぐの場所にある1人席だということにだ。ここに座ると隣に誰も座ることができないので贅沢な通勤空間が約束されるのである。1車両に2席、もしくは1席、最近はハイブリッドのバスも増えたので、それだとバッテリーを積んでいるのだろう、一人席は消えてなくなる。


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その日、幸運なことにドアの後ろにある一人席に座ることができた。外はあいにくの雨である。すっかり暗くなった景色をなんとなく流し見ながらぼんやりしていた。降りるまでの車中は時間にして30分ほどで途中たくさんのバス停を通る。10分ほど走った場所に高校があるようで、そこからたくさんの学生が乗って来る時がある。タイミングが悪いとバス停に後ろの方で並んでいる学生は乗れないときもあるくらいだ。

 

この日も雨の中、たくさんの学生が乗り込んできた。ぼんやりしたままの私は列を作った人の中で、中間くらいに並んでいた女の子が後ろに並んでいる人を先に行かせているのに気が付いた。どうしたのか?なんとなく気にかけながらもぼんやりを続けていたら、並んでいた人が全員バスに乗り込み、その後にゆっくりと女の子が乗って来た。なにやらとても焦っているようである。

 

担いでいたリュックをドサッと運転席の横にある運賃箱の横に置き、中をガサゴソと漁っていた。そういえば、並んでいる時から同様の仕草だったことを思い出した。運転手はドアを開けたまま無言で前を見ている。女の子は荷物が詰まったリュックを下の方までひっくり返して何かを探しているようだ。すぐにピンと来た。

 

交通系のICカードだな。暗くてよく見えないが、少しどんくさそうな動きの女の子はさっきから運賃を払う手段であるカードか、または財布を探しているのだろう。ギヤをニュートラルに入れたバスのエンジン音が一定のリズムで車内に響く。ずいぶん長い時間に感じた。といっても2、3分くらいだろうか。後ろの方の客がざわざわし始めたのも分かる。このままだとどうなるのだろうか?

 

ちょっと前に似たような状況に出くわしたのだが、その時は運転手が客に対して「降りる時に払ってください」といって発車させたのでこの日もそうなるだろうと思っていた。しかし今日の運転手はその気配を全く見せない。無機質な、マネキンのようにピクリとも動かず前を向いたままである。


それからまた1分くらい経っただろうか。私はいてもたってもいられず、財布から小銭を取り出した。どこまで乗っても均一料金なのでちょうど240円を握ると女の子の肩をたたいた。暗い車内でよく顔は見えない。

 

「はい、これ。使って」

 

そう言って女の子の手のひらに小銭を置いた。何度も何度も頭を下げる女の子の顔はやはり暗くて見えないままだったが、振り返って運賃箱に小銭を入れるとすぐにバスが出発した。なんとなく運転手に苛立ちを感じている。

 

走り出したバスの中、女の子は私の前にあるドア付近に前を向いて立っていた。私はスマホを取り出してニュースなどを眺める。務めてその女の子のことは気にしていないようなそぶりで、だ。雨の中、少し渋滞した道を10分ほど走った先のバス停に停車した。なんとなく私の視界に入っていた女の子の影がそっとこちらの方を向いた。降りるんだな。私はそう思いながらもスマホを見つめて顔をあげずにいたら、その女の子が横に来て私の膝を叩いた。

 

「ありがとうございました」

 

透き通った、しかし囁くような小さな声のする方を見上げて私は驚いた。どんくさいイメージのその女の子の笑顔は、美少女というにふさわしく、シュッと鼻筋が通り、大きな瞳でこちらをしっかり見ているではないか。私はにっこりと笑顔で返し頭を下げた。後ろのドアから降りた女の子を置いてバスがすぐに発車した。この時もなんとなく外は見ないようにスマホを見つめていた。

 

終点に向かう、かなり空いてきた車内でスマホの画面を見ながら、画面は全く見ておらず、何を考えるでもなくぼんやりしながら、良い気分になっている私がいた。情けは人の為ならず、か。などと心の中でつぶやいて顔を上げた。

 

それ以来、その女の子が同じバスに乗ってきたことはないし、乗ってきたとしても、もうその女の子の顔は思い出せないのでわからないだろう。あの日、帰宅してすぐ、この出来事を家族に話した時に見せた娘の笑顔は手に取るように思い出せる。通勤も無駄ばかりではないな、と思い返した日の話しである。

 


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またもや今日も金曜日

 

華金ではないか!

 

ビールをこよなく愛する皆さま

 

であるからして

 

やっぱり今宵も

 

キンキンに冷えたビールで

 

乾杯ッ!

 

なのである。

ムフフフフ。