*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。

 

これまで二著物語:長谷川平蔵(その1)で、

 

瀧川政次郎『長谷川平蔵・その生涯と人足寄場』、朝日新聞社、1975

の内容を基に、その生涯を追い、

 

二著物語:長谷川平蔵(その2)では、瀧川書と

 

重松一義『鬼平・長谷川平蔵の生涯』、新人物往来社、1999

とを比較して、平蔵と平蔵が生きた時代の評価を検証し、更に、二著物語:長谷川平蔵(その3)では、

 

今川徳三『長谷川平蔵仕置帳』、中公文庫、2001

を参照して、当時の捜査・取調・捕物の実態を概観してみた。

 

今回は、平蔵が生きた時代の世相・世情に視点を当てて検証してみたい。

 

散所言葉「二著物語:長谷川平蔵(その2)」で紹介した重松書は、一般庶民の事情に通じていたことが平蔵が職務を果す上で役立ったことを強調しているが、その一つの顕われとして、江戸時代に悪党の間で使われていた隠語である「散所言葉」に平蔵が通暁していたことを指摘している。その中には、今でも使われているものがいくつかある。例えば、「やばい」「ずらかる」「さくら」「しゃば」「かも」「すけ」「すけこまし」「おかま」「しかと」といった言葉である(重松書、153-54頁)。

 

また、散所言葉ではないが、寛政の改革の担い手で、何事にも倹約を叫んだ松平定信が、市井で使われている褌(ふんどし)が長すぎるとして短くすることを言い渡し、その結果使われるようになった褌が、定信の官位である越中守を文字って「越中褌」と呼ぶようになったという経緯を紹介している(同上、171頁)。(武漢禍対策の一環として政府が国民に配布したマスクが鼻と口を十分に覆えないと不評になり、「アベノマスク」と呼ばれたことと似ている

 

このような当時の流行語を含めた当時の世相を、幾つかの挿話を通じて綴ったのが、前回「二著物語:長谷川平蔵(その3)」で紹介した今川徳三による別著、

 

今川徳三『平蔵組、走る・鬼平とその時代』、河出書房新社、1997

である。

 

「くさい飯」の語源:散所言葉の一つとして分類してよいのか不明であるが、刑務所で刑期を務めることを指す「くさい飯を食う」という表現が、石川島人足寄場に由来するものであることを当書は明らかにしている。寄場で収容者に出すために炊かれた飯が、同地の水の質が悪いがために異臭を放ったのが、その語源であったという(78頁)。

 

因みに、「二著物語:長谷川平蔵(その1)」で紹介した瀧川書に拠れば、これは平蔵の責任ではない。良質の水が得られる場所という点も勘案して寄場の建設地として平蔵が提言したのは深川鶴歩町であったが、それを松平定信が退けて石川島にしたという(瀧川書、237-38頁)。

 

今川書概観:今川書は、巻末に挙げられている十一点の参考文献から、当時の世相を物語る諸種のエピソードを拾い出し、

 

Ⅰ.鬼平に機知と手腕

Ⅱ.棄捐令に泣く人、笑う人

Ⅲ.泥棒を捕らえてみれば同心の倅

 

という三つの大きなカテゴリーに分けた上で紹介している。

 

このような題目から推測できるように、扱っている話題は平蔵絡みのものだけではなく、平蔵が生きた時代の武士・庶民の生き様、当時起きた刑事事件の具体例といった多岐に及んだものとなっている。

 

混浴禁止令に至る痴漢・痴漢対策騒動:その中の一つを要約する。上記Ⅲ.に含まれている「混浴禁止で銭湯はガラ空き」という見出しの話(169-74頁)は、寛政の改革の一環として行なわれた風紀取締り強化の一環として混浴が禁止されるまでの当時の江戸の銭湯の様子を赤裸々に語っていて面白い。

 

風呂場は密閉された空間で、客足の回転を早くするために湯温が高いため、湯気が立ち込めて視界が悪い。そんな状況では、

 

男女がたてこむと、女の尻をなでたり、おっぱいをつまんだり、たちのわるいやつは、悪ふざけにうしろから股間に手を差し込み、きやぁ! と悲鳴をあげさせ、それが楽しみで銭湯に行くという奴が多かった(171頁)

 

という。当時の銭湯は、さながら現在の都心の満員電車のようだったのかもしれないが、満員電車で痴漢被害への対抗策を女性が講じるのと同様に、江戸の女性も黙ってはいなかった。

 

気の強い女が一計を案じ、しっぺ返しに髪にさしたかんざしを握り締め、男根をつかみ、つかまれた奴はおれに気があるな、とでれんと鼻の下をのばしたところを睾丸を刺し、男が悲鳴をあげ騒然となったところで、さっさと上がり、股間をおさえて出てくる奴を見て、

<ざまぁみやがれ、助平野郎>
と内心舌を出して笑っていた。
(172頁)

 

このような痴漢撃退法が江戸の銭湯で広まり、被害者(と同時に加害者)の男は、刺された状況が状況だけに、訴え出ることも出来ず泣き寝入りしたという。

 

この話を聞いた定信は「女どもがいたずら心を出し、体にさわられもしないのに突き刺し、騒ぎになるのを喜ばぬとも限らぬな」とふくみ笑いとした(173頁;電車内で痴漢冤罪事例が頻発しているのと似たようなことが起きるのを予見したということであろう)。

 

定信が混浴禁止令を出した背景には、このような事情があったという。

 

定信の俗称:当書で一つ気になったのは、松平定信が当時巷間「西下」と呼ばれていたことを記しているが、一度「西下(定信)」(21頁)と表記しただけで、その後頻繁に登場人物の台詞の中で「西下」という言葉を使用している点である。初出の部分を見逃した筆者(山本)は、その後、この「西下」が何を指すのか分からず、戸惑ったものである。調べてみたら、当時、定信の屋敷が江戸城西の丸の下にあったことから、そのように呼ばれていたようである。初出の際に、こういった説明を付してくれれば、私のようなそそっかしい読者も憶えることができて、その後戸惑うこともないと思った。

 

「二著物語:長谷川平蔵(その3)」で紹介した今川の『長谷川平蔵仕置帳』でも同様に、「西下」については「西下とは定信のことである」(同書、30頁)と書いたきりで、その由来については記されていない。その反面、「能のないとは知恵が働かぬとうことである」(同前、66頁)、「お構いなしとは、罪には問えぬということである」(同前、93頁)、「目こぼしとは、黙認してもらうことである」(同前、100頁)というような、時代劇・時代小説に通じている人ならば先刻御承知の言葉の意味をくどくどと説明している。

 

解説が必要なところに解説を付さず、不要なところで解説しているという、ちぐはぐな点が若干気になった。

 

<「その5」に続く>