*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。
前回「二著物語:淀の方(その1)」では、
ポルノ小説まがいの早乙女貢『淀君』と、淀の方及びその妹二人にまつわる疑問に分かり易い形で答えている立石優『戦国三姉妹の栄華と悲惨』を紹介した。
巷間に流布されている淀の方と大野治長との不倫関係について、立石はこの書の中で一刀両断に否定している(以上、前回のまとめ)が、その他に、歴史小説やドラマ・映画などで取り沙汰されたトピックについても、幾つか以下のように取り上げている:
・淀殿と北政所(秀吉の正妻、お禰―他に、“寧”など諸表記あり)との確執の有無 ⇒ 北政所の正妻としての地位は不動のものであったし、大坂城内の二人の居場所は離れており、顔をつき合わす機会は余りなかった。北政所と秀頼が御互い相手を気遣うような書簡のやり取りをしていたことから、対立関係は窺われない(149-51頁)と分析している。。但し、「しょせん、正妻と妾の関係である。お互いに分を弁えて過大な干渉をしないようにしていた、という冷めた間柄であったに違いない」(151-52頁)とも付け加えている(*妾の部分に敢えて下線を引いた。この点を一つの大きな問題点として取り上げるので、憶えていて頂きたい)。
・秀吉の死後、北政所が大坂城を出た理由 ⇒ 淀の方との相克が原因で出たとか、淀の方にいびり出されたとの俗説を否定し、北政所が亡き秀吉の菩提を弔い、淀殿が秀頼を養育するという役割分担をして豊臣家を支えていこうという意思によるものと分析している。(163-65頁)
・北政所は家康に加担していたのか? ⇒ 関ヶ原合戦の折の北政所の態度は不明瞭で、著者(立石)は「意思を明らかにしなかった」としている(175頁)。大坂の陣の直前に、北政所は大坂城に向かったが、既に徳川勢によって道が封鎖されていたので、途中で引き返している。仮に徳川との意思疎通がなされていたのならば、途中で引き返すことはなかった筈で、この行動は北政所独自の判断によるものであったと著者(立石)は分析する(同)。つまり、北政所が徳川側に加担していたという説には根拠がないと結論付けている。
・淀の方による嫁(千姫)いびりはあったのか? ⇒ この話は、江戸時代に書かれた俗書にあるもので根拠はない。徳川二代将軍秀忠の娘である千姫の母は、淀の方の実の妹であるお江であるから淀の方にとっては姪であり、辛くあたることは考えにくい。また、淀の方と千姫が一緒に連歌を詠んだことも記録されていて、二人の仲は睦まじかったと推測されると著者(立石)は分析している(183-84頁)。
こういった諸点について、この立石書と概ね同意する見解を表明するも、上記の中で淀の方を“妾”と形容する点に異議を唱えたのが、
福田千鶴『淀殿・われ太閤の妻となりて』、ミネルヴァ書房、2007年
である(*但し、当書が出版されたのは立石書が世に出る三年前なので、立石書への反論として書かれたものでないことは明らかである)。
*淀殿は正妻同然
著者(福田)は、“一夫一妻多妾”(正妻が一人で、それ以外は妾)制度が定着した江戸時代以降、そして一夫一妻が常識となった明治以降と異なり、当時は“一夫多妻”(正妻が複数)が常識であり、淀の方は北政所寧と共に秀吉の正妻(若しくは“別妻”)の地位にあったと結論付ける。その傍証として筆者は、当時の文書で淀の方は殆ど“淀様”と呼ばれていて、これは正妻に付けられる敬称であることを挙げている(3-4頁)。他にも、
・小田原の陣当時に秀吉が寧に充てた書簡、及び天正十九年の「兼見卿記」の中で、明らかに淀の方を指す“大阪殿”という言葉があり、居所に基くこのような呼称は側室や妾には使われないものであること(114-16頁)、
・淀の方の第一子である鶴松が死去した後でも、淀の方が正妻に相当する“簾中”と呼ばれていたこと(127頁)、
・秀吉の死後に書かれた書簡の中に、寧と淀の方を“両御台様”と呼んでいるものがあり、これは両名を対等な関係の正妻として見做していたことを示しているもの(165-66頁)
といった諸点を挙げて傍証としている。
*“淀君”という呼称の起源
では、“淀君”という呼び方が何故通るようになったのか?これについて著者(福田)は、桑田忠親などの書を引きつつ、
・売春婦を“立君”“辻君”と呼んだ室町時代の慣わしが基となり、大野治長との不倫関係談が拡散されるようになった江戸時代に淀の方を蔑んだ呼称として流布され(2-3頁)、
・それが明治になってから坪内逍遥の戯曲『桐一葉』(主人公が淀の方と豊臣家の重臣片桐且元)が歌舞伎で上演されてブレークしたことで定着した(16-18頁)
としている。
このように、淀の方を“妾”とすることには異を唱えた福田書であるが、それ以外の点では、大方立石書と意見を一にしている。
例えば、大野治長との不倫関係については、北政所寧が秀頼を可愛がっていたことを指摘し、「寧には秀頼が秀吉の実子であることを確信する何かを感じるところがあったのだろう」と分析し(22頁)、「秀吉の嫉妬深くて惨忍な性格からして、茶々の密通が露見すれば、たとえ世子の実母であっても命の保障はなかったであろう。・・・茶々が秀吉の生存中にその眼を盗み、わが命の危険を冒してまでも・・・密事に走るような奔放さがあったとはとても思えない」(23頁)と結論付けている。
福田書は、当時の書簡や日記といった一次史料を基に、淀の方を始めとする豊臣家が面々が滅亡へと進む過程を冷静に追っている。同時に、淀の方にまつわる俗説がどのように生まれ、発展してきたかも克明に分析している。史実論[history]と史述論[historiography]のどちらも怠らずに行なった良著である。