以前、このシリーズ(で上梓した

 

二著物語:豊臣秀次(その1)

 

の続編である。(*このシリーズの趣旨については、「プロフィール」を参照)

 

「その1」では、従来「殺生関白」と言われてきた秀次を名君として扱った小説を二点俎上に載せた。

 

そのような小説を詠むにつけ、「では、実際の秀次とはどんな人物だったのか?」という疑問が浮かんでこよう。これに対する答を出すには、史家の研究書をまず参考とするのが至当であろう。

 

その中で、簡潔に秀次の生涯を纏めているのが、

 

小和田哲男『豊臣秀次・「殺生関白」の悲劇』、PHP新書、2002

である。

 

静岡大学名誉教授である筆者については、NHK大河ドラマの時代考証にあたったりしているので、御存知の方も多いであろう。

 

だが、大学教授だからといって、その所論が全て正鵠を射たものだとは限らない

 

一例を挙げる。この教授の強い意向によるものか、NHKの担当者がこの教授の意向を取り入れたのかは定かでないが、大河ドラマ『軍師勘兵衛』の初回で、この教授の所論が登場人物の台詞の中に取り入れられているのを発見して、小生は唖然としたことがある。桶狭間合戦を登場人物が話題にしている場面で、「大将首を取った者よりも、敵の場所を伝えた者の方が恩賞が篤かったそうじゃ」という台詞が出て来たが、これは小和田教授の自論をそのまま台詞にしたものである。

 

詳述は避けるが、この論に対しては、藤本正行などが詳細な反論をしていて、そちらの方が説得力があると筆者(山本)は考えている。

 

本題に戻り、この書について論ずると、無難な内容に終始しているという印象を受けた。

 

冒頭で、当書が秀次の弁護をするものである旨公言しているが、その目的はまずまず達成できたと言って良い

 

しかしながら、小和田の記述を見る限り、四国や小田原といった秀次が参加した合戦で秀次自身がどれほど自身の才覚を働かせたかは定かでなく、善政を布いたとされる領地の近江八幡の統治も「実際にとりしきっていたのは秀吉から秀次に付けられた年寄たちであった」(103頁)と言っているように、矢張り秀次の影は薄いのである。

 

そして、小和田も秀次を「名君」とは見ていないようである。後述する秀吉から秀次に宛てられた折檻状を引用して、「若さにまかせ、また権力をかさにきて、秀次には性的に放縦なところがあったのかもしれない」(151頁)といった分析も見られる。

 

小和田の書には、藤田恒春という秀次研究の第一人者ともいうべき学者の論稿・著書からの引用が多いが、その藤田による

 

藤田恒春『豊臣秀次』、吉川弘文館、2015

は、非常にバランスの取れた秀次像を提示しているように思われる。以下、要点毎にその所論を纏めてみる。

 

(1)武将としての資質

秀吉が秀次に出した以下のような書状を引いて、芳しからぬ人物であったことを示唆している。

①天正十二(1584)年の長久手の戦いの敗戦の際に、これに参加して逃げ帰ってきた秀次に対して出した譴責状:秀吉が「俺の甥であることを自覚せよ!」といた強い言葉で叱り付けており、秀次の「日常の行動そのものに矛先が向けられているようである」(25頁)との分析を著者(藤田)はしている。

②天正十八(1590)年の小田原への遠征の折に、出陣の際の心得として出した五箇条:遠征中の食事などについて細々と指示したもので、「一軍の大将的立場の者へ宛てるような内容でない」(60頁)として、著者(藤田)は「秀次に浪費壁があったのではないかとさえ勘ぐられる」(同前)と分析している。

③天正十九(1591)年に秀吉の後継者として関白に就任するに際して与えた覚書:これについても筆者(藤田)は「関白職を譲渡する相手に出すものとは思えない内容」(99頁)と断じ、その例として、「茶の湯・鷹野・女狂い」といった方面で「自分(秀吉)の真似をするな」といった訓戒を垂れていることを挙げている。

 

二著物語:豊臣秀次(その1)で論じた二書の著者である渡辺・澤田両名、そして小和田教授も、秀次には文化的素養があったことを指摘して賞賛しているが、この点については藤田も認めていて、「彼(秀次)の素質のひとつとして見なすことは許されるだろう」(113頁)としている。だが、この分野に於いても、中尊寺や足利学校といった地方にあった重要文書を自分の権威を利用して京都に持ち運び去ったり、古典文書の一部を切り取ったりといった芳しからぬ行為があったようで、公家の間には「若輩無智の秀次卿」と揶揄する向きもあったようである(109頁)。

 

(2)「殺生関白」という世評

この世評については、当時もそのように呼ばれる向きがあったと著者(藤田)は分析する(7頁)。だが、これは小瀬甫庵『太閤記』で記し、それをそのまま引き移した形で山岡荘八『徳川家康』の中で描写したような鉄砲で通行人を撃ったというようなことではなく、太田牛一『太かうさまくんきのうち』に記されている、正親町天皇の諒闇中に鹿猪狩を行なったことが大きな要因となったようである。(*蛇足であるが、著者が太田牛一を「織田信長の右筆」[7頁]としているのは誤り

 

藤田書は、このような秀次観がどのようにして形成されたかの分析もしている。徳川政権が豊臣政権を簒奪して成立したというイメージを多少なりとも和らげるために、秀吉そのものは悪し様に言わず、一時的ながら後継者となった秀次に批判の矛先を集中したことに因るものだと言う(234頁)。因みに、似たような分析は渡辺一雄の小説でもなされており、渡辺書の中で唯一評価できる点かもしれない。

 

(3)秀次事件の真相

その最期については、従来言われて来ているように、秀吉に秀頼という実子が誕生したことで、それ以前に秀吉の後継者として養子となった秀次との関係がギクシャクしていったことが大きな原因であることは否めないとする。藤田は、それに加えて、関白となった秀次の周囲に取り巻きの勢力が出来てきて、そのために未だに国政の実権は掌握していた太閤秀吉との軋轢が基となったと分析する。渡辺・澤田が言うような三成陰謀論は江戸時代になってから出来た「徳川御用達史観」の産物である。

 

結論としては、秀次は小瀬や山岡が描いたような酷薄な人物ではなかったものの、渡辺・澤田が提示したような名君でもなかったようであり、武将・統治者としては無能と言った方がよい人物だったようである。

 

一見、随分と意見が分かれるようにも思われるが、これら小説・専門書の中で共通している見解もある。それは、秀次の人生が叔父の秀吉の都合によって翻弄されたものだったという点であり、これについては誰もが認めるであろう。