言わずと知れた豊臣秀吉の甥である。

 

秀吉の姉ともと弥助(後に三好吉房と改名)との間に生まれ、その後三度養子となる。養父は、一回目は浅井長政の家臣であった宮部継潤、二度目は三好長慶の叔父である三好康長、そして三度目が関白となった豊臣秀吉である。実子がなかった秀吉の後継者として関白の位を継ぐが、秀頼が誕生してから秀吉との関係がギクシャクし始め、最後には謀反の疑いをかけられ、切腹させられる。

 

この秀次については、古来「摂政関白」を文字って「殺生関白」と呼ぶ向きがあるが、これは多分に江戸時代に成立した小瀬甫庵の『太閤記』に描かれた酷薄な秀次像が影響していたたようで、実像とはかけ離れていたというのが現在の大方の意見である。

 

そんな中で、秀次を名君として描写する書も出てきている。そんな小説の一つが、

 

渡邊一雄『封印された名君―豊臣秀次』、廣済堂文庫、1999

である。

 

多少の粗があっても少しは良い所を指摘して評する小生だが、この小説については酷評せざるを得ない。その理由は、以下の通り。

 

①まず、小説としての体を余りなしていない。登場人物の会話が各所に見受けられるが、それにも増して不必要な歴史の解説が矢鱈多い。そして、その解説が必要以上に長きに及び、かつ、誤認・誤解に満ちている。以下のような例を挙げることができる:

 

・「さむらいの子でなければさむらいになれなかった時代に秀吉が・・・」(27頁)⇒まだ兵農分離が進んでいなかった時代であり、誤り。明らかに江戸時代の身分制度がそれ以前から確定していたと誤解している

 

・「足利尊氏は後醍醐天皇を隠岐に流した」(64頁)⇒後醍醐天皇が隠岐に流されたのは、建武の新政がなる以前のことで、流したのは鎌倉幕府。

 

・「早雲が北条姓を名乗ったのは名門の出身と思われたいがため」(69頁)⇒史上「北条早雲」として知られている「伊勢長氏」「早雲庵宗瑞」という名の武将は生前北条姓を名乗っていない。後北条家が北条姓になるのは、息子の氏綱の代から

 

・「(明智光秀が毛利と対峙している秀吉の援軍として派遣されたことは)秀吉にとっても自分の力量を信じてももらっていないことになったので決して愉快なことではなかった」(83頁)⇒光秀を中国戦線に派遣することになったのは、秀吉自身が信長に援軍派遣要請をした結果である。

 

よくも著者はこのような事実誤認をして、それを出版社の編集者が見落としたものである。

 

②次に、主人公である筈の秀次の影が薄いこと。物語の最初の方で登場人物の回想部分で幼少期の秀次の発言が出てくるが、それ以外で秀次が自らの口から最初の台詞を発するのは、何と小説の中盤辺りの127頁になってからである!一体、「この小説の主人公は誰なのか?」と問いたくなる。

 

③最後に、陰謀論を多用し過ぎていること。本能寺の変を有力な公家が背後で動いていたことによるものとして記述していることも然ることながら、秀次を失脚させるために背後で動いていた主要人物は石田三成であるとして、これでもかとばかりに奸佞な人物として描いているのには辟易せざるを得ない。

 

主人公である筈の秀次の影が薄いことを指摘したが、その善人ぶりを際立たせるために、周囲の人物を皆悪者として描こうという陳腐な手段を使ったような印象を受ける。秀吉さえも、表面は陽気に振舞うも、内心では他人を貶めようと常に機会を窺っていた陰険な人物として描写されているのである。

 

何故このような酷い小説が世に出たのか?小生の推測に過ぎないが、まず、著者には非業の最期を遂げた秀次の生涯に自身の経歴と重ね合うように見えたのではなかろうか?と言うのは、この書のカバーに記された著者渡辺一雄の経歴には、大丸百貨店に入社後、日本作家クラブ章を受賞したデビュー作発表から2年後、『出社に及ばず』という作品を世に出してから「部長→課長→主任という降格人事を経験し」その後退社したことが明らかにされている。このような自身の経歴と秀次の最期が筆者の目にはダブって映り、余り歴史の知識・素養がないにも拘らず秀次の伝記を書く契機となったのかもしれない。そして、既に有名作家となったこの著者の作品ということで、出版社も内容を余り吟味することなく出したのではなかろうか?

 

重ねて言うが、以上は小生の憶測である。だが、上記のような酷い内容を見るにつけ、このような推論をせざるを得ないのである。

 

これに較べれば、

 

澤田ふじ子『有明の月・豊臣秀次の生涯』、廣済堂出版、2001

は、遥かに出来が良い。

 

まず、小説としての体裁をなしており、秀次が主人公として生き生きと活躍していることは評価できる。

 

そして、各所で歴史上の一次史料からの引用をしていること。作者がよく勉強した上でこの書を書いたことが窺われる。

 

次に、渡辺書と同様に、石田三成を秀次失脚の主要な黒幕として描く陰謀論を展開してはいるが、純粋な悪玉のようにも記述していない点も好意的に受け止めたい。秀次を貶めた三成の論理・行動は「豊臣家の為政にたずさわり、その永続をねがう人間の俗性からすれば、また当然であろう」(290-91頁)と冷静に分析している点は評価できる。

 

但し、若干の難点はある。

 

①細かい事ながら、「普請」という言葉を建物の建築の意味に誤解して使用していたようである。実際には「普請」は土木工事を指し、建物の建築の場合は「作事」と言う。

 

②各所で話が飛んでいること。例えば、本能寺の変から賎ヶ岳の戦い以後の北の庄城落城までがすっぽり抜け落ちていたのには、拍子抜けと言うよりは、唖然とした。

 

<「その2」に続く>