前回は、
Final Defeat of Japan
なる見出しを如何に訳すかの設問を発し、
①拙訳が「日本の最終的敗北」に単語一つ(二文字)を付け加えたものであったこと、
②これ以降の見出しの流れが、
Final Defeat of Japan
↓
Policy Dilemmas
↓
The Iwojima and Burma Campaigns
↓
Campaign on Okinawa
↓
The Manchurian Campaign
となっていたことを示し、
③更なるヒントとして、見出しが包摂する部分から例文を幾つか抜粋した。以下に、それらを再録すると共に、節約を付す:
Other than the continuing campaigns in New Guinea and the Philippines, where Japanese forces remained in the field until the surrender of Japan, the last seven and a half months of the Greater East Asia war witnessed six successful military efforts by the various Allied powers that, together with the naval and air offensives, completed Japan’s final
and total defeat.(日本軍の部隊が本国の降伏まで戦い続けていたニューギニアとフィリピンを除けば、大東亜戦争の最後の七ヵ月半に展開されたのは、連合国陣営の諸軍が行った六つの作戦行動で、これらが海空からの攻勢作戦と相俟って、日本を最終的かつ全面的な敗戦に追い込むこととなる。)
In terms of relative importance in the ending of the war, events in Burma, China and southeast Asia were of secondary consideration: the Japanese decision to surrender in August 1945 was the product of two mainstream developments, namely the attacks on Hiroshima and Nagasaki on 6 and 9 August respectively . . .(終戦をもたらしたという点での重要度という観点で見れば、ビルマ・中国・東南アジアでの出来事は副次的なものであり、日本が一九四五年八月に降伏する決断を下すこととなったのは、主流と言うべき事態の流れの中での二つの出来事によるものである。一つは、広島と長崎の各々に対する八月六日と九日の原爆投下・・・)
. . . the fact that the surrender of Japan was signed at a ceremony aboard an American warship was tacit acknowledgement of the prime agency of Japan’s defeat.(降伏文書の調印式が米国の軍艦で行われたのは、日本を敗戦に追い込む際の主役が誰であったのかを暗黙裡に示すものである)
もう②と③からお分かりであろう。
この部分では1945年に日本が降伏に至るまでの過程を手短に記述しており、飽くまでも、これ以降に展開される話の内容を前段としてまとめたものなのである。そして、見出しの流れから明らかなように、この後には日本や連合国の終戦に向けた動きを記した部分や、硫黄島、ビルマ、沖縄といった諸地域での作戦の模様が綴られている。
こういったことを考慮して小生は、読者を混乱させないように
日本の最終的敗北・概観
というように、「概観」という一語を付け加えておいた。
ところが、監訳者は何故かそれを取り払っていた。
些細なことではあるが、監訳者としての役割を果そうとするならば、こういった話の流れを把握できる能力を持つことが求められるであろう。