Frank Schatzing
本物の世界を体感しない分だけ、人は傲慢になっていく。
今日は、私の高校時代の恩師で最も尊敬する「教師」の一人でもある人から教わったことを話してみたいと思う。
私の高校は英聖公会のキリスト教系学校であり、キリスト教という授業があった。
この授業を担当していた宗教科の教師が恩師である。
はじめはキリスト教の授業というと、なんか説教じみていてつまらなそうだし、洗脳されるかと思った。
確かに中学3年間にキリスト教を教わった教師はまさに宣教師という感じで、そのつまらなさは半端なかったわけだけど…
で、恩師の授業はどうだったかというと、これが面白いわけ!
どうして面白いかって、キリスト教を批判したキリスト教の授業だったから。
正確に言うと、キリスト教を歴史に大きな影響を及ぼした一つの要因とみて、
その哲学性や歴史性、宗教性を分析するとともに、生徒自身に自身の歴史観を構築させるようなものだった。
さらに恩師は皮肉にも、英語科の教師よりも英語が堪能なばかりか、ギリシア語やラテン語に精通し、イギリス史を専門として大学でも教壇に立つような人物だった。
そんな彼は、歴史を常に批判的な目線で考察し、その功罪をしっかり見極めていたように思う。
と、まぁ、べた褒めしたところで、本題に。
彼に教わった一番の哲学は、「疎外論」である。
この概念は今の私の根底に根差すところとなっているし、そればかりか様々な物の測り方を助けてくれている。
では「疎外論」について簡単に説明しよう。
「疎外」とは、ある制度や考え方が、本来の目的を見失い、目的のための制度であるはずが、制度のための目的となってしまうというものである。
たとえば、法律。法は本来、人が社会生活を円滑に営むためのルールである。
しかし、ひとたび法律ができると、法に抵触しないように事業を営む者がいたり、法廷では事実より法律関係が重要視されたりということが起きてしまう。
たとえば、試験。試験は本来、受講者の実力を確認したり、自身の学習進捗度を確認したりするためのものである。
しかし、ひとたび試験期間に突入すれば、皆いかに試験をパスするかを考えて学習してしまう。
こういう逆転現象のことを「疎外」と呼ぶのである。
この「疎外論」はドイツ哲学者であるフォイエル・バッハの「キリスト教の本質」という著書のなかで論じられている。
そこで、キリスト教こそこの「疎外」の第一現象と述べているのである。
今昔の教会は、常に聖書という正典のもと弱者を補助するどころか苦しめ、戦争を起こしてきたという歴史があるのである。
恩師いわく、この「疎外」が世の中からなくなることはありえない。がゆえに、それに向き合いどう対処していくかが重要である、という。
公認会計士の勉強の中において、会社法・民法・旧商法・金融商品取引法に触れたことでこうした法曹界における「疎外」と、それに立ち向かう判例などの関係が鮮明にうかがえるようになった。
また、自身の将来像についても同じだ。
何のために大学へ通うのか、何のために勉強するのか、何のための就職活動か…
すべては目的のためであり、今行うすべては手段であることから目を背けてはいけないのだろう。
しかし、その目的が認識できなかったり、
目的がありつつも手段を目的と勘違いしたり、
勘違いではなく意図的にそう認識することで逃げたり、
この「疎外」の虜になってしまっている人が多いように思う。
もちろん自分もそれらに飲まれる時もある。
でも、「疎外」と向き合ったとき、まずはその状況が「疎外」であることを認識する。
次に、本来の目的を思い出す。
最後に、「疎外」から抜け出す。
こうしたプロセスは忘れないようにするだろう。
これが最も尊敬する人に教わった思考プロセスである。