今日のテーマは、『瞑想と瞑想的行為との違いと、現在にフォーカスしていく手法』です。

瞑想、メディテーションと呼ばれる行為と、
同じことを反復して行う中で、瞑想しているかのような状態になる瞑想的行為との違いについて、時間軸に沿って考えてみます。

まず、軸となる、『時間』について。一般的には、
過去、現在、未来を全て一つにしたものを『時間』とよんでいますが、ここでは、『時間の帯域』あるいは『時間帯域』という言葉を文中で使っていきます。『時間帯域』とは、過去から未来までのをある一定の幅をもった時間のことで、今回この文中で使われる場合は、過去と未来の長さがほぼ同じであることを前提とします。例えば、お正月に、昨年を振り返り、今年一年、よい年になりますように、と考えているときは、意識の中で、二年の『時間帯域』を持っている、ということになります。

続いて、『行為』ということについて考察してみます。
あらゆる行為は、それが瞑想でも、瞑想的なものでも、時間的な経過の中で始まっていきます。つまり、過去と、現在と、未来を意識の中でつないでいく、言い換えると、意識して時間的な流れの中に『行動を伴って入っていく』のが、『行為』ということになります。

瞑想的行為においては、瞑想状態に入るきっかけとなる、
多くは反復される行為が前提にあり、その行為の間、瞑想状態が続くことになります。ここには、その行為の始まりから終わりまで、ある一定の幅の時間帯域が存在します。そして、その時間帯域が失われる、つまりその行為をやめてしまうことは、多くの場合、瞑想状態から抜けることを意味します。

一方、瞑想やメディテーションでは、
座して集中していくという行為がきっかけとなって瞑想状態に入りますが、そこから先は、行為そのものには影響を受けにくい状態になっていきます。これは、瞑想という行為が、一定の時間帯域には依存しない行為であるからです。瞑想という行為の始まりは、瞑想をしない状態という過去から現在、現在から瞑想をしている未来、という時間帯域に属しています。しかし、瞑想が始まってからは、行為という観点での時間帯域は消滅し、今度は自分が存在する、あるいは意識がそこにある、『今この瞬間』に向かって、時間帯域の幅がどんどん小さくなっていくという現象が起こります

時間帯域がどんどん小さくなって、それがゼロになったとき、
意識は肉体の感覚を超えることになります。これは肉体を越えた、魂の領域、と、とらえられます。魂は、時間との関わりが希薄であり、肉体は、時間帯域と密接な関係にあるといえます。

時間の感覚が固有であるように、日常生活における時間帯域も、
人それぞれです。過去を思い返したり、未来に思いをはせるのも、ある時間帯域を保持しているといえますし、同じ人がいくつもの命題について、別々の時間帯域をもっていて、それぞれが影響しあって現在の自分を映し出していることもあります。つまり、過去を左手で、未来を右手でしっかり握った状態で、現在の自分が定義されている、ということもいえるでしょう。

瞑想は、過去とも、未来とも、結びつかない、
現在へ向かっていく行為です。握り締めている過去と未来を、手放し、時間帯域の幅を徐々にせばめていくことによって、『今この瞬間』の深い深い谷に降りていくことになります。その先には何があるのでしょう。今までずっと自分の中で思い描いてきた過去と未来を、手放してしまうというのは、容易なことではないかもしれません。ですが、時間の間隙に入り込んでいく瞑想という行為の中に、大きな喜びがあるのも、確かなことなのです。