敗戦の日にあたり、国内も国外も、
「私が正しい」と思い込みの評価だったり、捏造した事実だったりして、
「今を生きる私たちの対話」ができないのは相手のせいだと言いあっているのを見て。
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どちらが正しいか、自分が勝者になるよう、相手の言い間違いや小さなミスをあげつらって議論するディベート(討論:debate)。
相手の言葉に触発されて、双方が出し惜しみせずに新しい発想を出し合い、重ね合うダイアログ(対話:dialogue)。
私は、対話をしたい。
少しに言い間違いをしないようにと、注意を払って小声で話すよりも、
付け込まれないようにと強い口調で言い放つよりも、
小さな気付きを共有したい。
それを尊重しあえる仲間でありたい。
そんな気付きを生み出せる場を持っていきたい。
間違っていたっていいじゃないか。
終わった後で、その途中で検討して、
次に別の方法を選べばいいんだから。
対話は対話だけれど、
対話は、試行、チャレンジの行動とセットです。
私は対話の場を応援します。
小学生を見ていると、
ちょっとしたいたずらや仕返しが、だんだんエスカレートしていきます。
相手の身体を傷つける危険なことをやろうとします。
最後は、
「僕の方が痛かった」
「僕の方が10倍された」
と、被害の程度を言い合います。
この現実を作っているのは、私なんだ。そう、あなたなんだ。
100%の被害者なんてない。
生きている限りは、相手が被害者の面も必ずある。
だからといって、そこで黙るのではなく、
より良い今を作るために対話をするんだ。
自分の正しさを主張しあっているのだと、
主語と理由をあいまいにしたまま
「被害者は私だ。私は悪くない」
と言っている、どこかのバカな大人たちと一緒だ。
と、子どもたちを見ていて思う。
一度、お互いが相手の立場になって、ディベートすればいいんだ。
それをすると、武装した「ビリーフ」や「価値観」が緩む。
その上で、対話をしましょう。
私たちは、子どもたちのモデルになりましょう。