恋とマシンガン | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

漫画とかドキュメント番組で、不良やいじめっ子から足を洗ってまじめな

社会人に更生したり、華やかな世界で成功したりした人間を特集すると、

人は口を揃えて「偉いわねえ」という。

 

果たして本当に偉いだろうか。

漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の1エピソードにこんなシーンがあった。

派出所に元不良の少年が大原巡部長に連れられてやってくる。

更生して社会人になったので挨拶をしにきたのだ。

主人公・両津勘吉の後輩の中川巡査と麗子巡査は、「偉い」というが

面倒見を任された両津だけは

「こいつのことを偉いといったら、今までこいつに嫌な目にあわされて

きた人間の立場はどうなるんだ!?」

というようなこという。

 

あくまで両津は面倒係が面倒くさいだけだから必死に反抗をしたわけ

だが、両津のいうことも一理あると子供ながら読んでいたときにそう感じた。

 

そうなのだ。オレもそう思う。

思いきり悪かったやつがまじめになって偉いといわれるならば、最初から

まじめに生きてきた人間は、もう神に等しいではないか。

 

オレ個人的には不良やいじめっ子から更生して、華やかな表舞台にでてくる

人間はどうも好きになれない。

ボクシングなど格闘技系の選手に元不良だったとか多いし、最近では

元暴走族の落語家などでてきているが、どうも好きになれない。

「悪い」とはいわない。ただ好きになれないのだ。

 

それはそれなりにもともと才能があったり、世間が好きな言葉を引用すれば「努力」も

してきたのかもしれないが、それをふまえてもやはり、若いころもやりたい放題やって人に迷惑

掛けてきた人間が、大人になっても自分のやりたいことやって、お金も稼げて

というのは不平等で理不尽な気がする。

 

だって、どう考えても通常の感覚だったら、大人になるにつれてワルから更生する

のは偉いことではなく、当たり前のことじゃないか。

オレからいわせれば、そんな不良やいじめっ子の彼ら彼女らからいじめられたり

してきたけれど、自殺や登校拒否をしなかった人たちのほうがずっと偉い。

 

普段、50の仕事をやっている人が翌月も50の仕事をしてもあまり評価されない。

だけど、0の仕事だった人が翌月100の仕事をすると評価される。

どちらも合計は同じ100なのに、後者のほうが頑張って汚名返上したように目に

うつるのだ。

そんなトリックがまかり通っているのだと思う。

 

成功者にたいする嫉妬といわれればその通りかもしれないが、個人的な考えでいえば

元不良やいじめっ子だった人間には華やかな表舞台にでてもらいたくない。

世の中の裏方として汗をながして今まで迷惑かけてきた人やいじめてきた人にたいする

罪滅ぼしをしてほしいと思っている。

だって悔しいから。

(しかし、俳優の宇梶剛士だけはなぜか好感もてる)

 

でもやはりクラスに偏差値の高いヤンキーもいたし、楽器やスポーツが得意ないじめっ子も

いたのである。それが残酷な現実である。

 

オリンピックが閉会したとたん、バッシングもピタリとやんだが、報道内容がすべて

事実だとしたら、小山田圭吾にもちょっと世のなかにでてきて人気者になってほしく

なかったような気もする。

 

オレはファンでもなんでもないが、逆に考えればあれだけ音楽の才能があったのに

いじめっ子だったのが残念だ。

あれで汚点がなければ人間性も音楽性のとても評価される非のうちどころのない

タイプだったのかもしれないのに。

 

フリッパーズ・ギターも別に興味なかったけれど、この「恋とマシンガン」はけっこう

好きだった。というかフリッパーズはこの曲しかしらない。

 

たしかドラマの主題歌だった。

どれも本編は観ていなかったけれど、当時TBSがママハハブギとかADブギとか

予備校ブギといった「○○ブギ」というドラマを放送していて、予備校ブギの主題歌だった

と記憶する。

ドラマ本編は観ていなかったけれど、この曲だけが聴きたくてOPだけ毎回観ていた

ような気がした。

オリンピック開幕直前の小山田騒動のときも、騒ぎを聞くたびにこの曲が頭の中で

繰り返し流れた。