そして誰もマリー・アントワネットになった | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

近々で差別やいじめについてもちょいちょい語ったから今夜は「貧困」について

少々。

 

日曜日の朝刊にて、厚労省が各省内に国会の答弁にて「非正規という言葉を

使うな」という通知を発信し各紙がその情報公開を求めたとたん、マズイと思って

撤回したという記事がでていた。

 

つまりは「非正規」というと、マイナスイメージであると同時に、企業はもちろん国も

正社員を創生できていないという意味になるので、遠回しに「有期派遣」などといって

煙に巻けということである。姑息なり。

 

政府や各省の考え方は別として、オレは現実問題今の日本は「非正規」という言葉を

世間にもっと浸透させないといけないとつくづく思う。

 

たとえばオレ自身がこれから生活費のために単発の日雇い労働を探すにしても、

「日雇いバイトで探している」とかいういい方は極力しない。

「とりあえず非正規で探している」という。

 

友人や知人が同様にしょうがなくパートをやるとしても

「○○さんは、とりあえずパートをやってる」といういい方も極力しない。

「非正規で働いているらしいよ」とできるだけそういうようにしている。

 

「アルバイト」「パート」といういい方をしてしまうと、バブルがはじけた直後、社蓄となる

ことを回避するため自ら進んでバイトの道を選んだフリーターのような人間も、

正規で働きたいけどその場が与えられず、とりあえずつなぎでバイト・パートしている人もみな

一緒くたになってしまうのだ。

 

「今バイトしてる」

だと、やや軽い印象があり、本人が自ら望んでフリーターという立場にいるようにも

聞こえて、雇用情勢の危機を訴えるように響かない面がある。

 

だが、「今、非正規で働いている」

といえば、本人は当初正社員を望んでいるという訴えも感じとれるし、今日本(に限らず)が

それだけ厳しい雇用状況下におかれているということもいくらか伝わるんじゃないかと

オレは思う。

 

だから、オレは現在において可能な限り「アルバイト」「パート」「派遣」というワードは

使わず、そこは「非正規」と表現するようにしている。

 

別に間違ってはいない。

非正規といえば、まっさきに契約社員、試用社員と思う人間も多いと思うが、

アルバイトもパートも派遣も、みな「非正規」なんだ。

そこを麻痺しちゃいけない。

 

元警察官の人がこんなことをいっていたとなにかの本に書いてあった。

パトカーを運転する警官は、だんだん自然と気持ちが大きくなる傾向があったりする

らしい。

 

それはパトカーを運転していると、普段から周囲の車が道を開けたり、譲ったり

必要以上にぶつけないように走ったりするから、なんとなく殿様気分で自分が偉く

なった錯覚になるからだとか。

 

またその本とは別だが、企業の採用担当者も人を選考することで、自分が人間を選定する

神のような能力を持ったように錯覚する者もいるという。

 

なんとなく理解できる。

 

特に富裕層でなくても、特定の能力に突出していなくとも、人は自分の普段の「生活」を

勝手に基準としてしまい、いくらか麻痺してしまうことがある。

 

オレも大学卒業後に就職浪人やって、そこそこ同情もされながらも同時にそこそこ

叩かれたし、同じような立場の友人もいたからわかるのだが、仕事がない人間にたいして

「仕事ないならば仕事もらうために資格でもとりにゆけ」

という人間が昔は多かった。

今もまだいると思うが。

 

一見すごくまともなことをいっているように聞こえるが、よく考えてみるとそれはオカシイ。

 

資格を取るにはそれなりの金がいる。

勉強する教室が遠ければ、そこまで通う金もいる。

 

じゃあ、その金はどこからでる?

 

その金と余裕がないから、まず第一に仕事が欲しいといっているわけだ。

すごく複雑でプチ哲学的ないい方をしてしまえば、

「資格をとりにゆける金があるのならば、急いで資格などとりにゆかない」

のではないだろうか??

 

すこし前にTBSクレイジージャーニーを観ていて、アジアだか中東だかの治安が悪い地区

に住んでいるボロボロの服をまとった貧困層の人々がそんなようなことを語っていて

とても頷けた。

 

むしろ、ごく当然なことなのにどうして、時間があって仕事がない人たちにたいし

やたらと「資格とれ!資格とれ!」という人間が昔から多いのか疑問だ。

 

資格と仕事。

にわとりが先か、卵が先か、という論に似ている気がする。

とにかく精神論でいっているか、あるいは「オレがこんな働いているのになんで

お前は働かないんだ!」という嫉妬の勢いでいっているか、あるいは単純によく考えてないから

そういう発言をしてるのかもしれない。

 

金に余裕があるから資格がとれるわけだ。

そもそも資格やボランティア活動というものは、資金と時間の双方に余裕があるものが

取得および実行するものであって、貧困層の人にはタダ働きとか報われるかどうかわからない

勉強などする余裕がない。

取得できるかどうかも確実でない資格より、明日の一食のほうが大事だ。

自分自身の人生が被災地のようなものなのに、他人の笑顔を喜ぶ心の余裕などないし、

それこそ、本人が死んでしまえば、今後ボランティアをすることが永遠にできなくなる。

 

国や地域が支援して無料で受講できる資格もある、といいたい人もいるだろう。

だが、人には資質という物がある。

勉強や面接は得意だがその資質がない人間がヘタにそういう資格の職業について

しまうと、その人間にかかわる人たちに被害がでてしまうのだ。

 

かつて、気の狂ったような人間に関わったことがあって、周囲からヤバいといわれていた

人物だったのだが、ある日その人物が「ワタシ、介護福祉士なんで!」といわれて

唖然とした。今まで何人の人間がこの嫌われ者と喧嘩して、心無い言葉を浴びせられ

傷ついたのか……

 

やはり各資格というのは、まさにそれを保持する‘資格’ある者に与えられないと

いけないのだ。

欲しがっている人間が検定に合格したからといって与えてよいものではない。

 

さて、

ここ数年、富裕層だけでなく、中級層の人たちも、貧困層の人たちの生活の理解度や見方が

麻痺しつつあるように感じてきた。

 

それは格差がひっそりと細分化されてきたからかもしれない。

 

あるいは、「富裕層」「中級層」「貧困層」という3段階はそのままだけれど、

「中級層」と「貧困層」の間が、これまで以上にすごく開いてきてしまっているか。

 

富裕層がその感覚を麻痺させて、中級層と貧困層を見下すのはこれまでの例だが、

本来は富裕層よりも貧困層寄りだった中級層が、だんだん貧困層への理解を麻痺させて

きたような印象を受ける。

 

現在、ブラック企業に勤めている中級層の人、

あるいは自分の働いている企業はブラックだと感じている中級層の人はけっこういると

思う。

それはそれで可哀想な気持ちは十分理解できる。

 

ただ、クレイジージャーニーにでていたような貧困層の人や、仕事が与えられず、しょうがなく

多摩川の河川敷に住むホームレスの人のような貧困層とは確実に異なることがひとつある。

 

それは収入。

 

与えられているのは拘束時間や労働時間に見合わない賃金かもしれない。

金銭では補填できないようなストレス環境かもしれない。

 

でも……

不釣り合いな給与だとしても、それでもやはり最低限17万以上とか、最低水準の生活が

できる給料はもらっている。

 

迷いなくコンビニにも入るだろうし、1円単位の価格差は気にしない生活は送れるているはず。

 

貧困層の人は、働く気はあるのに仕事が与えられないから、無収入か切り崩しかスズメの涙

程度のあぶく銭給料。

 

定価販売のコンビニなどいかない場合が多い。

たとえ、住み家から離れた場所であってもスーパーのタイムセールで半額の弁当を買いにゆく。

そして1円でも安いものを必死に選ぶ。

 

セコいわけでもない。ケチっているわけでもない。

貧困層の人たちはそういう金使いで回していかないと、生活も回らないのだ。

 

安定した低賃金と、無収入・不安定収入はどちらも辛いが、このふたつの差は大きい。

 

だから最近は富裕層だけでなく、中級層までもが貧困層に当たり前のように残酷な

助言をしたりする。

 

「資格をとりにゆく金がなくても時間があるならば、せめて金のかからない運動で

体動かしてたらいいじゃん」

という人は、貧困層の人に確認するまでもなく、スポーツウェアやジョギングシューズ

くらいは当然持っている、あるいは持っていなくともそのくらいの買物は悩むことなく

ポーンとできるだろう、といった感覚なんだと思う。

 

さっきちらっと書いたとおり、オレがこんだけ苦労してるんだからお前は甘えてるんだ!

というストレス発散を含んだ部分も人によってはあるだろう。

でも、多くの中級層の人に悪気はまったくないんだと思う。

でも悪気がないだけに、貧困層の人には残酷で皮肉な助言なんだと考える。

 

実際いったとか、いってないとかいう論もでてはいるが、

「パンがないなら、お菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉。

 

浪費グセが国民から反感を買い処刑されたフランスのマリー・アントワネットが

いった言葉だ。

 

この台詞、自分の地位を鼻にかけて、わざと放ったならばまだいいけれど、

本気の感覚で悪気なくいったのであれば、相当ヤバい麻痺である。

 

ホームレスでもないオレがそこまでいうべきことじゃないといわれるかもしれないが、

今の格差感覚は実はけっこうくるとこまできていて、

富裕層は中級層以下に対する価値観が、そして中級層までもが貧困層にたいして

感覚が麻痺してきているかもしれない。

 

株価の計算もいいけれど、人は貧困についても、もっと哲学するべきじゃないだろうか。

 

 

もっとも恐ろしい麻痺の種類とはなにかと哲学してみた。

 

それは「麻痺していることにすら気づかない『麻痺』」だという結論がでた。