ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

野球において投手はロージンバッグという滑り止めの白い粉の使用が許される。

だが、野手であったうえに許されないほうの白い粉を使用してしまった選手がいて、

彼が高校野球からプロにゆく際にはドラフト指名というドラマが世の中を騒がせた。

誰だかわからないと思うから、はっきりはいわないけれど(笑)

 

彼は当時読売ジャイアンツ入りを熱望していて、本人もすっかりドラフトでは

自分が指名されるもんだと信じ込んでその日に挑んだが、いざ、ドラフトが開始されて

蓋をあけると、読売が指名したのは自分ではなく「あばれるくん似」の投手のほうだった。

 

彼はそのとき泣いて母親と電話で話したのだが、母親からは

「あんたが勝手に巨人に惚れて、勝手にフラれたんじゃないの!」と一喝されたという。

 

国民が描いていた理想のハッピーエンドとしては彼の巨人入りだっただろうけれど、

ただ現実を見つめれば、母親のいうとおりである。

思わせぶりだとか匂わせるとかいう段階ではなく、巨人がはっきり「君を指名する予定だ」

とでもいっていればそれはある意味で裏切りかもしれない。

 

でも、読売が彼を指名するだろうというのは、それまで彼が巨人入りを熱心にアピール

していたから、読売も当然それにこたえるだろうというストーリーを彼本人も国民も勝手に

描いていただけなのだ。

 

本人にどれほどの熱意や誠意、あるいは国民の共感をえる能力があったとしても

それがかならず皆の望む理想の結末にむすびつくとはかぎらないのが現実だ。

 

かつてボクシングで、バチバチに睨み合っていた亀田ファミリーと内藤大助。

亀田次男である大毅と内藤が戦った際、大毅は敗れ去った。

 

敗北の判定がでたあと、大毅は相手に挨拶もなくすぐにリングを去り、その後の

インタビューで内藤は、

「(これだけ戦ったのだから)最後の握手くらいしてもいいのに」

といっていたのが印象深い。

 

スポ根アニメやドラマでは、最初バチバチだったふたりが長い死闘のすえ最後に

お互い握手して抱き合うというのが定番だが、それはあくまで理想。

 

オレは内藤大助が好きだし、人の姿勢として立派なのはいうまでもなく内藤の

ほうだと思うけれど、しいていえば、相手が「戦ったあとはもうオフサイドで握手しましょう」

と約束したわけでもないのに、アナタが勝手にお互いこぶしを交えて戦えば最後は

きっと清々しくドラマのように仲良くできるでしょうという流れを想い描いていただけしょ?

という捉え方もできてしまう。

 

我々の日常生活も同じだ。

 

たとえば職場に、すごくイヤなやつがいたとする。

あるとき、上からの命令でそいつとしばらくの間ふたりきりで地方で暮らしながら仕事を

しないといけなくなった。

 

そんなとき、人はポジティブに自分に言いきかせようとする。

「逆にいえばふたりだけで助け合わないといけないのだから、きっとだんだん分かり合える」

「ふたりだけになってみたら、見える部分がでてきて、もしかしたらいい人かもしれない」

と。違うか??

 

たしかにいざふたりだけになってみたら、いい人だったとか、相手も変わってきたという

パターンもあるだろう。

だが、現実はドラマじゃないので確率的にはそこまで甘くない。

 

むしろ周辺のエキストラが排除されふたりきりになったことで、醜悪な部分がより目立ち、

前よりもさらにそいつを嫌いになる可能性の方が高いかもしれない。

 

「自分がこれだけ気を譲って、相手に近寄ろうと長い間努力してきたのに、

向こうは俺のその気持ちに応えなかった」

と、第3者に漏らしたとしよう。

 

同情はしてくれると思う。

そしてボクシング内藤の例と同じで、人として姿勢として立派なのはこちらだというのも

認めてくれると思う。

 

だけど、たどり着いたバッドエンドについて冒頭で話したプロ野球選手の母の言葉のように、

「でも、あんたが勝手に『真摯に真正面から向き合えばやがてわかってくれる』と思いこんで

一方的に尽くしたんでしょ?」

と、いわれてしまうばそれまででもあると思う。

 

人間関係においてドラマのような理想の結末はなかなかない。

ドラマのようなストーリーを描いて相手に時間と費やすのはある意味でギャンブルかも。

 

今年に入って、映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」を観てみた。

 

 

 

――

1960年代初めのインド ポンディシェリで生まれた少年パイ・パテルは、父が経営する動物園で

動物たちと触れ合いながら育つ。ところが、パイが16歳になった年、人生が一転する。

 

両親がカナダ モントリオールに移住することを決め、家族と動物たちは貨物船でカナダへ

向かうのだが、太平洋のど真ん中で突然の嵐に見舞われ沈没してしまう。

たった一人、救命ボートにしがみつき一命を取り留めたパイ。

しかし、そのボートにはリチャード・パーカーと名付けられた凶暴なベンガルトラが身を潜めて

いたのだった……。

 

小さなボートと僅かな非常食、そして一頭のトラ。果たしてトラは少年の命を奪うのか、

それとも希望を与えるのか!? かくしてパイと一頭のトラとの227日にも及ぶ想像を絶する漂流生活が

始まった。

(amazonから引用)

 

内容は上にあるとおり。

 

現代のおとぎ話にも感じられるし、サバイバル映画でもあるようなイメージだが、

ハッピーエンドともバッドエンドとも表現できないようなラストには、冒頭で書いたことに

つながるような一見浅いようで実は深く思える哲学が仕掛けられている。

 

大海原で漂流する小さなボートの中で生きてゆかないといけない少年と凶暴なトラ。

 

解説にもあるように、果たしてトラは少年を喰ってしまうのか?

少年のほうが、食われないよう、トラを海へなんとか葬ってしまうのか?

それとも、人間と動物という境界を越えて理解しあい共生してゆくのか?

 

この場ではこのくらいにしておくので、気になった人は是非本編を観ていただきたい

のだが――

この映画、そういうカタイ一面は抜きにしてもエンタメとしてもかなり楽しめる仕上がりだった。

 

CGに依存した映画はあまり好きではないのだけれど、この作品はとにかくCGの映像が

美しい。

機械による技術を使用してリアルな映像ができればそれでいいとかいうレベルではなく、

監督ほかスタッフのセンスが見事に生かされている。

 

観た人は誰もが思ったと思うのでオレが改めて書くまでもないが、夜に光る巨大なクジラの

映像は格別美しく感動した。

 

あ、これはDVDじゃなく映画館で観るべきだ作品だったな、という意味ではやや後悔(笑)

 

とにかくエンタメとしても哲学としても十分楽しめる作品だった。

トラ自体もすべてCGだというから驚く。

トラなど架空の存在を描くという技術も驚くが、そこに実在しない存在を相手に演技する

役者もすごいと思う。

 

トビウオの群れのシーンも圧巻。