レナードの朝 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

周囲の人の負担を減らそうとして良かれと思いやったことにたいして一方的に

「勝手なことすんな!」と注意されることほど気持ちがべっこりヘコむことはない。

 

すこし前に放送されていたマツコと有吉の番組において、「指示待ち人間」に

ついて良いか悪いかという討論をやっていて興味深く観ていた。

 

テーマの投稿者は職場で指示を待っていたら、「自分から仕事をみつけないとダメだ!」

とおこられたらしいが、その人の先輩は気をきかして自分から棚の整理をしていたら、

「そこはあとで新しい商品を置くために開けておいたんだから勝手なことすんな!」

とおこわらていたので、指示を待つほうが正しいんじゃないかという投げかけだった。

(大雑把にいえば)

 

オレはこの投稿者の気持ちがよく理解できた。

似たような経験がよくあったからだ。

 

指示を待っていたら、「自分から仕事をみつけろ!」とつつかれるのがわかっているので

自発的にこれをやろうと思いはじめたらはじめたらで、この投稿者みたいに

「それは、どうせあとでみんなでやるんだから、今やっても二度手間になるだろう!」

とか、

「それをやるとあとでまためんどくさくなるだろ!後からやる人間のことも考えろ!」

といわれる。

 

電車やバスで老人に席を譲ったら、断られたりキレされたりでその人がその後もう

席を譲ろうと老人に声を掛けなくなってゆくのと同じで、ヘタに気をきかせて自発的に

動くと、「勝手にうごくな!」と、無駄に怒られるということがインプットされ学習すると

次からは必然的に確実な指示を待つようになるわけだが、そうするとそうするで再び

ループで「待ってないで自分から仕事を見つけろ!」といわれる。

 

また、「なんでもすぐ人に訊かないで、自分ですこしは考えろ」とかいっていた人間が

こちらが自分で判断して動いて間違いそうになると、一転して、

「自分の判断で勝手にすすめないで、わからなかったらすぐに訊け!」とかいってきたり。

 

指示を待っても地獄。自発的に動いても地獄。

訊いても叱咤。訊かなくても叱咤。

 

これを先にいっておかないとまたツッコミが入りそうだからいっておくが、そりゃあ、

自分で判断してやることにも程度というか、世間一般で常識と呼ばれる暗黙の範囲という

ものが存在していることは認める。

 

なので、たとえ良かれと思って自発的やったことだとしても、結果的にそれが間違っていたり

余計にかき回すことになるのであれば、ひとこと注意してくれるのはいい。

 

問題は注意するほうの「いい方」なのだ。

 

「気をきかせて考えてやってくれたんだろうけど、でも今それをやるのは違うんだよ」

とかいういい方ならば、素直に「ああ、すいません。気付かなかったです」と心から謝罪も

できるのだが、気をきかせてやったのに「あとからやる人間のことも考えろ」とか

「すこしは考えて動け!」などと頭ごなしにいわれたら、気持ちはタイタニックのごとく

ズブズブ沈んでゆくだけである。

 

そうやって叱る方も「相手の気持ちを考えろ」といいながら、今叱っている相手の

気持ちをまったく考えてないわけだから実に複雑である。

 

だから、番組を観てて、この投稿者の人がいっているシュチュエーションはオレのなか

では文句ナシの「仕事あるある」だと思ったのだが、有吉曰く、

「これ(自発的な先輩が怒られた例)はレアな例だから、この投稿者の人のいい方は

ズルい」

とのことで、番組的には自発的人間のほうがトクをするという答えに落ち着いたようで

オレはちょっと寂しかった。

 

ただ「正しい」とか「偉い」とかいっていたのではなく、あくまで「トクをする」というまとめ

だったので、言い換えれば人たらしで自己アピールに長けているという皮肉でも

ある捉え方もできたので、それなりに納得。

 

良かれと思ってやったこと、あるいは実際素晴らしいことをしたんだけれど、

だからといってそれが対象となる相手に感謝されるとは限らない。

 

たとえば、ビルの屋上から飛び降りた自殺した人をキャッチしたり、

入水自殺しようとしている人を泳いで助けたとする。

 

人命を救ったことは素晴らしいことで、周囲で批判する人間はまずいないと思える。

 

救われたほうも、それから時間が経ったあと、恩人にたいして「あのとき助けてくれた

おかげで」と感謝するケースも多いと思うが、すべてがそういうふうにゆくというのは

ヒューマンドラマだけの話。

 

本当に死になかった人間からすれば、余計な邪魔されて、自分を救った人間を

一生恨むかもしれない。

そのような実例もないことはないと思う。

 

助けた人間も、その態度に対抗することもないだろうが、それでもやはり自分が

必死になって助けた人間から一生恨まれるというのは決して気持ちいいものではないはずだ。

 

この流れで書くと誤解を生みそうだから、自殺救助の件からは離れて……。

 

 

人は誰でもいつかは死ぬ生き物。

人によって早いか遅いかという話。

 

愛する人や大事な人にたいしては、誰でも一日でも一秒でも長くいきてほしいと思うのが

当然だと思うが、それについて周囲と本人の願いが必ずしも一致しているとは限らない。

代表的なものが安楽死。

ひとことでは語れない問題である。

 

明日まで生きるか、5年後まで生きるかというくらい時間に開きがあれば、そこは迷うことなく

5年後を選ぶだろうけれど、明日か明後日かとか、20日後か22日後か、というくらいの

わずかな差であれば、できるだけ長く生きるというよりも、へんないい方になるがたとえ時間が

短くなってもそのほうがいい‘タイミング’っていうのがあるような気もする。

 

海の向こうの戦争が大嫌いで、たとえニュースからながれる解説だけでもたくさんの人が

亡くなったという知らせを聞くのが辛くてしょうがないという人がいたとする。

 

仮に余命10日と宣告されていたとして、10日後になくなったとする。

周囲の人間としては可能であれば、あと1日でもいいから長く生きてほしかったと願って

当然である。

 

でも10日が過ぎてその翌日の宣告から11日目。

どこかの国で大戦争が起きて、テレビやラジオでもお騒ぎになったとする。

 

戦争が大嫌いな人が、もしもう1日長く生きていたら、最後に自分がもっとも聞きたくない

知らせを耳にして、イヤな気分のまま旅だってゆくことになりかねない。

 

生きる時間は短くなるが、もし宣告通り10日か、あるいはそれよりも数日早く旅だって

いたら、イヤな気分になることもなく

「自分はいい時代に生まれて、いい時代に旅だってゆくことができた……」

と穏やかな気持ちで逝くことができるとも考えられる。

 

デリケートな問題で誤解を招くのがこわいから、表現がとても難しいんだけれど、

生まれてくる、そして死んでゆくことにたいして、ひたすら長く生きるということりも

それにふさわしいタイミングのときっていうのがあるのかなあという感じもする。

 

ここまで書いてきたことと、直接的なつながりはないのだけれど、

映画『レナードの朝』を観ると、命とか生死感とかそういったものの深いところにある

ものを改めて考えさせられた。

 

 

 

――

嗜眠性脳炎で、30年間半昏睡状態の患者を目覚めさせるため立ち上がる、新任医師の姿を描いた

感動の人間ドラマ。ロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウィリアムスほか出演

(amazonから引用)

 

漫画「こち亀」の中のエピソードのひとつに、主人公である両津の先祖のおじいさんが

天国から地上に降り立つ話があった。

 

ずっと昔の時代の人なので、大都会の光景が魔力のように見え驚き、テレビを観て

箱の中に人が入っている思ったりするのだ。

 

古い時代の人がいきなり現代にタイプスリップしてきて、風景や機械を観て戸惑うという

話は以前からたくさんある。

 

そういう作品はたいていエンタメなので、どこか笑えてホノボノする作風に仕上げられて

いるけど、江戸時代や明治時代とまで遡らなくとも、微妙に古い時代の人たちがもし

現代で生き返ったりしたら、そこまで楽しい気分になるだろうかと疑問。

 

そこにあるのは、

どこの誰かもわからない人間から匿名で誹謗中傷を書かれ、それが海に向こうまで

発信されているようなシステムの存在……。

高齢者をだまして、大金を奪ったりする集団の存在……

どんなに貧乏であったとしても少なからず小さな家には誰もが住めていたにも関わらず

悪天候の中でも公園や橋の下で段ボール暮らしをしている多くの人たち……

 

時間が流れれば、それにあわせた発展もあるが退廃も同時に存在する。

 

トータル的に目にして、感動の割合が大きい人もいれば、絶望と失望の割合のほうが

大きい人もいるだろう。

 

もし、人を生き返らせたり、あるいは意識のない人の意識を回復させることができたと

しても、そこで待っていたのは本人が目にしたくない光景だったかもしれない。

 

それでも、生き返らせたいという人がいて蘇生を実行するのであれば、それにおいて

今がもっともふさわしいタイミングかということと、相手の気持ちの尊重よりも

自分自身による「その人に戻ってきてほしい」という願いのほうが先行してしまっていないか

というのを冷静にじっくり考えてからにしないといけないかもしれない。

 

記事中間のアフィリエイトを挟んで、今回は前半も後半も映画のストーリーとは直接つながって

ないが、世界観としてはそんなことをたくさん考えさせられる作品だった。

 

キャスティングについて、デニーロが患者役、ロビンが医師役だが、当初はこの逆の予定だった

らしい。

脚本をみたデニーロが、自分がこの患者のほうを演じたいと願ったことで入れ替わったようだ。