死刑台のエレベーター | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

小学生のころテレビをみていたら、白昼の繁華街でひったくり事件があり、

それに気づいた近くの一般人男性3人(それぞれ他人)がそのひったくり犯を

とりおさえたというニュースがやっていた。

 

ひったくり事件自体はさほど珍しいとは思わなかった。

だが、捕まえた一般の人についてのエピソードがとても印象的だったので今でも

忘れずに記憶にあるのだ。

 

3人にうち2人の人はそれについてテレビのインタビューに

「とにかく捕まえようとおもった」

「当然のことをしたまでです」

と答えていたと記憶する。

ひとりは顔をださず、名前と回答内容だけの報道だったかもしれない。

よくある模範解答である。

 

だが、そのふたりのインタビューが流れたあと、残ったひとりの人についてニュース

キャスターがこういった

 

「なお、犯人をとりおさえたもうひとりの男性は我々にたいし、

『会社をサボってその場所に来ていたので顔や名前やインタビューは勘弁してください』

とのことで、取材は受けずにその場を立ち去られました」

 

うわー、かっけえーー!

子供ながらに観ててマジでそう思った。

 

会社をサボってたからバレるのがまずかったのは事実だろうけど、その人なりの

ユーモアもあってそういったんだと思う。

でも、そのさりげなさが当時のオレにはとてもカッコよかった。

まさに正体不明の義賊。

 

ひとりの人を救い、ひとりの悪人に体を張って立ち向かったにもかかわらず

被害者にも警察にも恩をきさせるようなことを微塵もしない。

 

世間にたいしても「自分は勇敢」というようなさりげないアピールもせず、

逆に「会社サボっている人間でーす」とダメ人間だといっているようなもの。

 

それがすごくカッコいいなあと。

子供ながら大人になるなら、こういう人になりたいと憧れたくらいだ。

 

いや、今こうして記事を書いてても思いだすと改めて感じる。

毎日決まった場所にいって、決まった人間の指示にしたがってるけど、いざ誰かが

困っているとき自分の利益にはならないことは一切しない人間と、普段はいい加減

ぽいけど、本当に困ったときに他人のために体を張ってくれる人と、果たしてどちらが

立派な人間なのだろうかと。

 

誤解ないようにいっておくと、最初の二人の人を決して批判してるわけじゃない。

その人たちもとても立派。

オレにはできないようなことをやった。

 

ただまああくまで視聴者側の個人の勝手な視線でいうと、インタビューでも発言は

面白くないかと(笑)

3人めの人は実際人助けもやったうえに、リップサービスも旺盛だなあと感動した。

 

でも、実際本人の気持ちは本人じゃないとわからない。

もしかすると顔だしてインタビューうけていろいろアピールしたかったのかもしれない。

 

「うわー!オレめっちゃいいことして、本来ならば世間からも英雄扱いされて、警察からも

感謝状もらえたかもしれないのに、なんで休日じゃなくサボってここに遊びにきて日に

限って、目の前でひったくりが起きてそこで捕まえたんだろう!

名前と顔だしたいけど、ここでそれしたら会社から怒られて処分されちゃうじゃないか!」

 

などと思っていた可能性もある。

もし思っていたとしたら、その人にとってはすごく良いことをしたんだけれど、ある意味では

「ついてない日」という表現もできる。

 

人生っていうのはほんとに皮肉なもんである。

本人の計画や進行の才能とは関係ないところで運が働き、予定が狂うこともある。

 

この人の例でいえば、「勇敢な一般人」を選ぶか「サボり」が会社にばれるかという

選択であり、片方はデメリットだけど片方は大きなメリットだったからまだいいといえば

いいかも。

 

たとえばこの予期せぬ運によって左右されるのが、犯罪を企む人間におきてしまい、

「冤罪で極刑」

「完全犯罪だったはずの自信満々の刑が運の流れでばれて無期懲役」

のどちらかを選ばないといけないとしたら、どちらを選ぶだろうか。

 

結果論だけでいえば、そりゃ誰だって極刑よりかは無期懲役のほうがいいだろう。

 

でも、犯罪を犯すほうにもそれなりのプライドと、あとこの言葉はあまり使いたくないけど

完全犯罪なりに努力をしてきたという想いがある。

極刑は避けられたとしても、せっかく綿密に企画して完璧に進んでいた計画を運の悪さに

よる想定外の展開くらいでオシャカにしたくないという想いは強いはず。

 

たとえば、仮にあなたが大阪にゆきAというホテルで嫌いな人間を殺したとする。

だけどあなたはアリバイ作りと計画のプロ。

その殺人があった日は東京にいたというアリバイをしっかりつくり、大阪でおきた殺人

もし事件の容疑者として警察から事情を聞かれることになっても、東京にいたことができる。

 

ただ偶然にもあなたが大阪で人を一人殺した日、東京でも三人の人間が同一犯に

殺されたという事件がおきた。

そして、その犯人があなたにとても似ているらしく、警察が事情を聞きにきた。

 

あなたは東京での事件とはほんとうに無関係中の無関係。

 

なので、「その時間は東京にいませんでしたから殺すのは不可能です」といえばアリバイは

立証する。

が、

「ならばその時間、あなたはどこにいましたか?」

と訊かれた場合、正直に「大阪にいました」と答えてしまうと、東京の3人殺しには関与してない

ことが潔白になるかわりに、せっかく計画して完璧にすすんでいた大阪行きのことはバレて

しまい、実際に自分がひとり殺したほうの事件が明るみにでたとき、「そのとき東京にいました」

と嘘はつけなくなり、逮捕されるリスクができる。

 

でも実際に殺しを隠すために「東京にいました」と答えてしまえば、やってもいない三人殺しの

冤罪で死刑になるかもしれない。

 

かなり古いクライムムービー、

『死刑台のエレベーター』はそんな偶然の不運にもてあそばれ、完全犯罪計画に翻弄された

主人公ジュリアンの映画。

 

 


――

ノエル・カレフの小説を元に、ルイ・マル監督が弱冠25歳で手掛けた犯罪サスペンス。

綿密な計画を立てて勤め先の社長を殺害した技師ジュリアン。

しかし、証拠を残したことに気づき慌てて引き返した彼は、途中でエレベーターに閉じ込められてしまう。

(amazonから引用)

 

マニュアルやら企画書やら、世の中にはそういうものをやけに好きな人もいるが、

運や天気や天才など、人間の努力や才能ではどうにもならないものがこの世に存在する限り、

どんなに素晴らしいプロジェクトも所詮は机上の空論。

 

1年に1度しか会えない恋人がいたとする。

その日は恋人を楽しませたいから、あなたは都内で一番夜景が綺麗だというレストランを

予約する。

最初にこういう優しい言葉をかけ、ラストにこうささやく、などと緻密な計画を立てるが、

もしその日の夜に関東が大停電になったなら、恋人が新幹線で移動の場合まず新幹線が

止まるので都内までこれない。

 

1万歩譲って飛行機とタクシーでレストランのあるホテルに恋人が到着したとしても、

電気が停まっているので夜景の見えるレストランまであがるエレベーターが動いてない。

 

さらに千歩譲って、ふたりで階段であがってレストランが営業していたとしても

一帯が停電している事実はかわらないので、窓の外に灯りはなく真っ暗なので

ここで

「夜景がとても綺麗だね…… でも、もっと綺麗なものを教えてあげようか?」

というカナブンが好む甘い汁のような定番のワードも自動的に封印されることになる。

 

ま、そーゆーこと。

 

あとね、運じゃなく自分自身で調子にのって余計なことしちゃったばかりに疑いの目

が強くなったり、嘘がばれたりする人もいたりする。

 

ドラマでいえば「警部補・古畑任三郎」で笑福亭鶴瓶が妻を殺した作家を演じた

「殺しのファックス」というエピソード。

妻が誘拐されたと嘘をつき、自宅で警察と話しているときに別荘からタイマーで身代金

要求が書かれた紙をファックスで届かせ、自分はその場にいたからファックスを送って

きている犯人は別のところにいるというアリバイ作りだったが、これもタイマーセット送信

されたファックス用紙に書かれたことに矛盾する予想外の出来事がおきたため、古畑から

疑いの目を向けられることとなった。

 

あと、どっかの会社員が面識のない作曲家など何人かの人のパソコンを遠隔操作して

逮捕されたが、のちに無罪判決がでて釈放された事件もあった。

あの江ノ島のネコの首輪になにか機械つけたやつ。

長くなるので内容は書かないけど、事件とそのオチをおぼえてる人はおぼえてるだろう。

 

とにかく、良いことを企画するにしても、悪いことを企むにしても、予期せぬ運や自然の力が

発動する可能性を考えることと、余計なことはしないのが一番。

 

最初のこの映画のタイトルをみたときはダイ・ハードやスピードのようなパニックアクション

映画かと思った。

監督のルイ・マルは製作当時まだ20代だったそうだ。

 

リメイク版もつくられ、日本でもドラマ化されてたようだがそれはしらない。