この被災した世界の片隅に | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

先日は防災の日だった。

そして今日は台風である。

 

ここ最近というか数年、自然災害が多くてどこでなにがあったか頭の中が

混乱してしまったりする。

 

そうそう、女性作家の川上未映子が「人生が用意するもの」というエッセイ集

のなかで次のようなことを書いていた。

 

「震災をめぐる報道でクローズアップされるのは、家族や夫婦といった社会的に

認められた関係にある人々ばかりだったと哲学者の中島義道さんがある雑誌で

お書きになっていたのを読んだ」

 

川上未映子は昔トークショーを聞きに行ったこともあり好きだし、中島義道も好きだ。

そして、ふたりが好きだということを抜きにしてもこの件については大いに共感だった。

 

そう、被災地といわれている場所で取材されている映像って、すごく偏っていると

以前から思っていた。

ウソは放送していない。だが、たくさんの事実を放送して伝えるのではなく、ごく限られた

一部の事実だけをやけに長く取り上げているというイメージがあった。

そして、視聴者も意外とそこを気にせず、つっこみをいれないどころか涙を流している。

 

たとえば、これが報道じゃない番組内における1コーナーでの密着企画とかならば

ひとりの人間やひとつの家族の様子をずっと追いかけたりするのはありだろう。

 

だが、「報道」というものは本来そこにあるありのままをたくさんの人に伝えなければ

いけないものだと思う。

たとえ利益にならなくとも、たとえ視聴者が涙を流さくとも、そこにいるできるだけ多くの

人の現状を伝えるべきなのである。

 

ひとつの大きな町が被災したならば、住んでいる人間の数だけその場にはあらゆる状況

にあった人がいるはずである。

 

ホームレスの人だって住んでいただろう。

生活保護を受けている独身の人だって住んでいるだろう。

ひとり暮らしの学生だって住んでいただろう。

貧乏生活をしている外国人の人だって住んでいるだろう。

 

しかし中島&川上がいうように、そういう人たちがクローズアップや密着されている

様子はあまり見たことない。

それどころか画面にもそれほど映っていないようにも思える。

 

取材やロングインタビューを受けるのはだいたい、たくさんの家族がいる人や

婚約者がいて数日後に結婚する予定があった人という場合もよく見かける。

 

誤解のないように書いておくと、どんな状況であれ自然災害にあった場所にいた

人たちはみんな同様の被害者であるわけだから、インタビューや密着を受ける側の

人たちは何も悪くない。

 

でも、どうしてもメディアのほうは現場で‘取材される側’をいくらか選んでいるような

気がする。

 

家族や恋人がいて仕事もしっかり持っている人たちを取材するほうが、視聴者の

興味を引けて視聴率にもつながるし、お涙頂戴的な演出要素もあるという目論見が

透けて見える。

 

いや、メディアだけじゃない。

教育者なども講演やトークするときは決まってそんな印象だ。

 

家族、恋人、仕事、建てたばかりのマイホーム……

そんな「ドラマ的背景を背負ってそうな人」ばかりを選んで、ロングインタビューや取材を

している感がある。

視聴者が感動ポルノを求めていることをしっているから。

 

仮にオレが被災地で被害にあい、がれきの上で膝を抱えてじっとしていたとする。

 

オレの手前には数人の家族が固まって同じようにじっとしている。

オレの後方では、カップルがふたりで寄り添って同じようにじっとしている。

 

そこに向こうから報道のテレビカメラクルーがやってきた。

 

最初はオレの手前にいる家族にインタビューするだろう。

その後、オレはきっとスルーされるような気がする。

あるいは一言なにか聞かれるが、オレの返答において、

「ああ、こいつはひとりもんだから特別なエピソードとかはなさそうだな……」

と思われ、節約したオレの取材時間ぶんで後ろのカップルの話にたっぷり

時間使いそうな気がしないでもない。

 

別にオレがカメラに映りたいわけじゃない。

また、カメラや雑誌に映るのがイヤな被災者の人だってたくさんいるだろう。

 

でも、それは取材班がそのときすぐ引き下がったり、あとで編集すればいいだけの

ことであって、報道する側の体勢としては、一部のお涙頂戴的なエピソードばかり

時間をとって特集するのではなく、そのぶんの時間をもっと分配して、もっとたくさんの

現状や現場の人の声を映像で発信するべきではないだろうか。

 

災害報道においては、通常の生活においても社会的にあまり認められていない

弱者(あまりこういういい方はしたくないが)の人たちが、透明人間にされているような

気がして心苦しい。

 

普段から辛い立場にあった人たちが、さらに辛い立場になったというシチュエーション

よりも、いろんなものを手に入れて幸せだった人が一気に辛い立場になったという

ほうが落差があって、お涙頂戴に拍車がかかるという奇妙な現象もまた存在している。

 

被災した街の中でも地域によって、その被害の規模の差はあるだろが、同じ災害を

受けたということは事実であり、そこに差はないのだ。

 

 

家族がいようが、子供がいようが、婚約者がいようが、独身だろうが、ホームレス

だろうが、外国人だろうが、防ぎようのない自然災害に見舞われた場合、そこにいた人たちは

同じ被災者なのだ。

みな同様に心に傷を負っている。

 

まあ、もちろんそこに犯罪者が潜んでいて被災したとしても、カメラの前にノコノコでて

インタビュー受けたりはしないだろうけど。

 

報道がドラマ的背景がありそうな被災者の人ばかり特集したり映したりするのは偏っている。

 

報道を見ているオレらのほうも、一部の涙や感動ばかり求めるのではなく、各被災地で

報道されない映像の片隅にいるいろんな人たちの情報をもっとしろうとするべきである。