柚木麻子「ナイルパーチの女子会」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

 

皆さんは自分の好きな歌手や作家、あるいはブロガーさんの作風や芸風が変わったらどうするか?

 

ファンとしての対応パターンは大きくわけてふたつあると思う。

 

ひとつは当人の人生を尊重して本人がやりたいならと割り切る代わりにファンをやめるケース。

 

もうひとつは、あくまでも自分の好きな○○(当人)であってくれと強く願うあまりに、元の○○に

戻ってくれと強く訴えてファンはやめない。

 

どんなジャンルにしても熱心なファンという存在は嬉しいものに違いないが、その熱心も

行きすぎるとちょっと厄介な存在になったりする恐さがある。

 

気づいたらそれは、対象となる歌手や俳優やブロガー自体が好きだということを通り越して

「その歌手や俳優やブロガーのこれまでの作風が好きな自分が好き」

ということに変わってきている可能性があるのだ。

 

ホラー小説の巨匠スティーブン・キング原作の「ミザリー」という有名なホラー映画がある。

とある男性小説家がいて、彼の作品の大ファンだという中年女性が彼を山小屋に監禁して

拷問を繰り返すという作品。

監禁の理由は、彼の書く作品が好きなあまり感情移入し過ぎて、ストーリーが自分の望む結果と

違うほうに流れたり、好きな登場人物が不幸になったりすることに怒りをおぼえ、

自分の望むどおりのストーリーを書かせるためである。

 

アマチュアながら物語を書く人間としては、自分自身よりも自分の作り出す作品にのめり込

んでくれるほうが嬉しいという想いはあるが、それでもここまでゆくとファンという存在の向こう側に

いってしまった狂気の極致。

 

その人が好きというよりも、その人の作品が好きな自分が好きという典型的なパターンだろう。

 

誰かが作った一曲、その曲だけのファン。

誰かが演じたその役、その役の時だけファン。

誰かが書いた短編、その一作品だけ好き。

 

そういうことならばわかるけど、もしその歌手や俳優、芸人やブロガー本人が好きだというならば

たとえ芸風がガラっと変わったり、自分が納得いかないようなことを歌ったり演じたり書いたりして

いても、本当のファンならば本人の生き方を尊重したうえで、自身がファンをやめるか続けるかを

判断するのが正しいかもしれない。

 

どんなに熱心でも、ファンを絶対やめないそのかわりに自分の理想とする「憧れ像」を続けてくれと

いうような行為にでるのはかなり厄介なファン。

というかその時点でもはやファンとはいえないかもしれない。

 

かなり前に柚木麻子の作品、「ナイルパーチの女子会」を読んだ。

 

あらすじをAmazonから引用すると以下。

 

――

丸の内の大手商社に勤めるやり手のキャリアウーマン・志村栄利子(30歳)。

実家から早朝出勤をし、日々ハードな仕事に勤しむ彼女の密やかな楽しみは、

同い年の人気主婦ブログ『おひょうのダメ奥さん日記』を読むこと。

決して焦らない「おひょう」独特の価値観と切り口で記される文章に、栄利子は癒されるのだ。

その「おひょう」こと丸尾翔子は、スーパーの店長の夫と二人で気ままに暮らしているが、

実は家族を捨て出て行った母親と、実家で傲慢なほど「自分からは何もしない」でいる父親について

深い屈託を抱えていた。
偶然にも近所に住んでいた栄利子と翔子はある日カフェで出会う。

同性の友達がいないという共通のコンプレックスもあって、二人は急速に親しくなってゆく。

ブロガーと愛読者……そこから理想の友人関係が始まるように互いに思えたが、

翔子が数日間ブログの更新をしなかったことが原因で、二人の関係は思わぬ方向へ進んでゆく……。
女同士の関係の極北を描く、傑作長編小説。
第28回山本周五郎賞受賞作。

 

女性ブロガーと、その彼女に憧れる読者の間で発生する変化。

 

だが、ブロガーと読者という関係性以前に重要な基盤となっているのはタイトルからも

読みとれる通り、女性同士特有のメンドくささ。

 

これまでの職場でもやめていった女性や、ママ友たちとの関係につかれた女性から

よく、「女同士は本当にメンドくさくて……」という愚痴や悩みを打ち明けられてきた。

 

オレは男なので、女同士の世界のことはまったくわからないから、しったようなことは

いえないが、でもさすがにここまであちこちで聞かされると、ああホントなんだろうな。

女性は大変だなって思う。

3人寄れば文殊の知恵というが、オンナたくさん寄ればメンドくさいといったところか?

 

こんなこと書くと女性におこられそうだ。先に謝っておこう。ごめんなさい。

まあ、男の中にも当然、メンドくさいどころか頼むから2日以内に首都圏から出てってくれって

いいたくなるようなやつはプランクトンの数ほどいるけど。

 

この柚木サンという人の作品にかんしては以前紹介した「BUTTER」に続いて、

この「ナイルパーチの女子会」、そしてそのあとに「けむたい後輩」っていう本を読んだけど、

とくに「ナイルパーチ……」と「けむたい後輩」の2冊は面白かった。

 

 

 

何冊か読んでみてわかった。

この柚木さんの得意とするテーマが。

 

それはオンナ同士特有のドロドロ。

 

女性コミュニティをしらないオレら男が読んでも、「ああ、なんかリアルだなあ」

と感じるし、女性が読んでも「リアル過ぎて読むのがつらい。でも身に覚えがあって読んじゃう」

といった声が多いところ。

 

ちなみに「ナイルパーチ」というのは淡水魚の一種。

食用としては淡泊な味だが、ひとつの生態系を破壊してしまうほどの凶暴性を持っている。

作品をある程度読み進めたりしなくとも、あらすじだけ読めばタイトルの意味もなんとなく

感じとれるだろうと思える。

 

以前参加した津久井やまゆり園における事件の講演会で、障害者でもある法人の女性代表も

差別問題について、こう語っていた。

 

「人間は攻撃するターゲットがいなくなると、また新しい弱いターゲットを探すんです」

 

人間の闇の部分を認めるようでイヤだが、これは的を得ている。

小学校や中学校における「いじめの法則」と同じだ。

いじめられている子が学校に来なくなったら、いじめっ子はまた次のターゲットを探す。

 

クラス全員友達!なんて悔しいけど綺麗事。

集団を作れば必然的にヒエラルキーも同時発生する。

 

ナイルパーチは同じ水槽の中に自分たちよりも弱い種類の魚がいる存在する時は

互いにその魚を食べて生きてゆく。

だけど、しまいにその餌となる自分たちよりも弱い魚がいなくなってしまったその時には

仲間に牙を向け、ナイルパーチ同士で喰らい合って、強い者が生きる。

 

ナイルパーチ同士=クラスの同級生同士、

ナイルパーチ同士=この作品中では気の合う仲良しブロガー同士。

 

共通の獲物や敵がいる間は手を取り合って仲良く共存するが、それがいなくなった時は

仲間討ち。

 

企業の営業部とかだって現実はそうだ。

すべての営業がそうだとはいわないが、オモテ向けにはチームワークだとか謳っているけど

アポ掛けたり、交渉する相手の頭数が切れたりしてきたら、コネなりなんなりで同僚や代理店が

声掛けている交渉先を奪って自分の数字にしようとしたりしているのが現状。

そんな人間が企業HPとかで「営業は助け合い」とか笑顔でいっているのを見ると噴飯モノである。

仲間を欺いて稼いだお金で養われている奥さんと子供が可哀想だ(笑)

 

ネット社会も人間社会も、ナイルパーチだらけの巨大な水槽のようなものかもしれない。

 

オレはできれば仲間を討ちたくもないし、仲間から討たれたくもない。

最高の理解者だと思っていた人間が、ある時急に最悪の敵になるかもしれない可能性は

忘れないほうがいい。