架空獣たちの白昼夢 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

①イカロス

 

一日が終わった。

今日も限りなく無意味に近いとしか考えられない仕事だった。

同じことを繰り返しダラダラ生きている自分に嫌気をおぼえながらも

昨日と同じ道を歩いて帰っていた。

 

心で呟いていたつもりの愚痴が無意識に声にでていたようで、

もたいまさこ似の主婦がすれ違いざまに道端の吐瀉物を見てしまった

ような目つきでオレの顔を一瞥して、そのまま歩いていった。

にらみ返すのも面倒だったので、小さな舌打ちをする。

 

とにかく早く家に帰りたいとオレは思いながら、足元にあった小石を軽く蹴とばすと

小石は勢いをつけ、アスファルトの上をコロコロと転がり、やがて側溝の

鉄網の隙間から下へと落下して視界から消えた。

 

必死に転がるように生きたあげくに、奈落に落ちる。

まるでオレの人生を暗示しているようなと安い詩人のようなたとえしか思い浮かばない

自分の創造力を恥じた。

 

それにしても喉が渇いた。冬だというのにこんなにも喉がからからになる

なんてどういうことだ。

労働というのは体力と時間だけでなく、体から水分までもここまで搾取するものだとは。

 

夕日も凍りそうな記録的な寒波の空の下、冷えた右手をポケットにつっこみ、

数枚の小銭の中から百円玉と十円玉数枚をとりだすと、道端に設置された

自販機の前にオレは歩いていった。

 

オレンジ色で「HOT」と書かれた文字の上に横一列にならんだ数種類の缶コーヒーの

見本と数秒間にらみ合い、今のオレの喉と胃袋がもっとも欲しそうなひとつを見極め、

指先でつまんでいた小銭を投入口まで運ぼうとしたその時、視界の右下のほうで、

なにか白くて小さいものが、かすかに動いたような気がした。

 

オレは小銭を入れようとしていた手をとめた。そして視線を自販機のすぐ横の地面へと移した。

全身肌色の小さな人間が、そこで瀕死を訴えかけるようにうつぶせ状態でピクピクと痙攣している。

そしてその背中からは2枚の白い羽が生え、吹いてくる風に揺られていた。

視界に入った白い物はどうやらこの羽のようだ。

 

「イカロスだ……」

オレはそこに倒れている人形のようなものがすぐに小学生の頃に音楽の授業で習った

歌に登場したイカロスだとわかった。

事情はわからないが死にかけているイカロス……これは面白いものを見つけてしまった。

 

手で捕まえようと思ったが、噛みつく可能性がある。

あるいは毒蛾のように羽や全身に毒の粉があり、触れると危険かもしれない。

その可能性を考えて、手全体でわしづかみにするのは避け、右手の人差し指と親指の二本で

片方の羽の先端をつまんで、ひょいと持ち上げることにした。

 

羽はヌルヌルしており、つまんだ瞬間に指からつるりと滑って、オレはイカロスを地面に

落としそうになった。

昔習った歌にあったとおり、やはり羽は本当にロウで固めて作られた代物のようだった。

 

イカロスをつまんだまま、部屋に持ち帰ったオレは改めてイカロスの顔をじっくり確認してみた。

目がふたつ。鼻がひとつ。口がひとつ。そしてやや小さいが耳がふたつ。

オレら人間とまったく変わらない顔をしている。

ただひとつ。当時見た音楽の教科書に載っていたイカロスの絵や、美術室に置いてあった

ギリシャ神話の彫刻像とは異なるところがあった。

 

顔だ。このイカロスはめちゃくちゃとはいかないまでも、けっこうな不細工面をしていた。

でも、よく考えてみれば教科書に描かれていたり彫刻に刻まれているギリシャ神話の

男はなぜかどれも男前だ。

かつて流行した恋愛ドラマに登場する男女は全員顔立ちが整っていたが、それは

すべて虚構だからだ。

 

百歩譲ってギリシャ神話の世界が実在していたとしても、そこにいた男女がすべて

整った顔をしているというのは、教師や教科書業界によるイメージの洗脳だという事実を

このイカロスが持つ醜い顔面が語っていた。

 

イカロスの捕獲なんてなかなかできないので、しばらくじっくりと観察してみよう。

そう思いながら死にかけたイカロスを見つめているうちに、オレはひとつのことが頭に

浮かんできた。

このヌルヌルしている羽は歌にあるとおり、本当にロウでできているのだろうかという

純粋な疑問だった。

 

煙草はもう数年前にやめた。

だけど当時使っていたまだガスがわずかに残っている百円ライターがたしかどこかに

あったはずだ。

オレは腰をあげ、しまった場所の記憶をたどりながら部屋の中を歩き回った。

ライターはすぐ見つかった。

 

外から持ってきた時と同じようにオレは片手の二本の指でイカロスの片方の羽をつまみ

もちあげた。

宙にぶらさげられた状態のイカロスのもう片方の羽は下を向き、ぶらぶらと揺れている。

 

オレはもう片方の空いている手で、カチっとライターを点火した。

燃え上がる細い炎。

そしてその赤い先端を、イカロスの羽へとじりじり近づけていった。

するとイカロスの目がカッと急に見ひらき、まさに断末魔という言葉がぴったりな

ものすごい形相をした。

 

「ピピィーーッ!!!」

 

今のは悲鳴だろうか? イカロスの口から全身を締め付けられてもがく小鳥のような声が

でて部屋に響いた。

 

酷いことをしたという感情はなかった。

ただ、手足もあって顔も人間なのに、人間らしい言葉や悲鳴は発しないんだな悶え苦しむ

イカロスを見つめながら、ぼんやり考えていた。

 

羽はやはりロウだった。

解かされたロウの羽は原型もなく、すべて白い液体となってしたたり落ち、オレの部屋の畳の

上に小さな白い水たまりをつくっていた。

 

そして気がつくと二枚の羽を失ったイカロスは、オレの指先でぶらぶらしながら絶命していた。

どうやらイカロスにとって、羽は命だったらしい。

もともと死にかけていたとはいえ、最後はオレがイカロスを殺してしまったようだった。

 

せめてその亡骸くらいは手厚く葬ってやろうかとオレは思った。

近所には多摩川が流れている。一級河川敷だ。

あそこの川辺あたりに埋めてやろう。

そう思ってオレは、部屋着からジーパンとダウンジャケットに着替えようかと思ったが

その時外はすっかり暗くなり、そして寒さも一段と厳しさを増している様子が窓の外に

感じとれた。

 

やはり、多摩川までゆくのはめんどくさい……

 

着替えて出掛けるのをやめたオレは、イカロスの亡骸をふたたび、ひょいとつまみあげると

トイレにゆきドアを開けた。

便器の中の水がたまったところに、ぽいっとイカロスの亡骸を放った。

ポチャン!と小さい音がして、イカロスの体はそこに沈んだ。

 

オレは便器に向かい両手をあわせ、数秒ほど黙祷をささげた。

そして、レバーに手を伸ばしてつまむと、「大」のほうへ、くいっとひねった。

激しく泡立つ水の勢いに吸いこまれて、イカロスは水の中へと消えていった。

 

 

 

②ドラゴン

 

政治資金規正法と同じで所詮はザル法なのだ。

え? なにが?って

銭湯など人々が裸で触れ合う公共の場において、「入れ墨の方おことわり」っていう

あの規則のことに決まっているじゃないか。

 

顔や手のひらとか、普段服を着た状態でも露出している部分に入れられた入れ墨ならば

脱衣所に入る前に受付で止めることもできるだろう。

だが、下腹部あたりや、胸あたりなどの入れ墨は服を脱いでだとき、そこで初めて確認できる

ものではないか。

 

ほら、だから今、オレの目の前にも一匹の立派な竜がいて、背中の肌の表面を舞っている。

みるからにヤバそうな世界の住人である目の前の男。

男が背中で飼っているその竜は、シャツで隠されて、受付という検問をやりすごし、この銭湯の

浴槽の中まで運ばれてきてしまった。

 

せっかく久々に銭湯にやってきたのに、よりによって背中に竜がいるやつと一緒になるなんて……

オレはつくづく自分の悪運を恨んだ。

ゆっくり浴槽に浸かっていたいが、背中に竜がいるこの男と同じ湯舟にいる時間はできるだけ

少なくしたい。オレはそう思って、浴槽から一度あがり、体を洗うことにした。

 

無理に時間を稼いで長く洗っていたつもりだが、竜の男はまだ湯舟に浸かっている。

熱さにはかなり強いようだ。

 

しょうがないので、オレも再び竜の男と同じ浴槽に戻った。

男の正面にはいたくない。当然真横もいやだ。

さりげなく、最初と同じ男の背後へとまわり、そしてゆっくりと体をお湯の中へと沈めた。

 

さきほどと同じ位置。

しかし、妙な違和感がある。

 

浴槽の湯面になにか気配を感じた。

なにかがお湯の表面を泳いで近づいてくるような感じだ。

気配を感じた右側をおそるおそる見た。

 

細長い生き物が、水面をするすると滑るようにしてウミヘビのように泳いでこちらの

ほうへ近づいてくるではないか。

 

あることにハッと気づいたオレは視線をその生き物から前にいる男の背中へとっさに

移動させた。

見事に肌色一色だ。

 

「ほら!みろ!! やっぱり男の背中から竜がいなくなっているじゃないか」

 

オレが一番恐れていたことが起きてしまったようだ。

竜が男の背中から抜け出て、自由勝手に動き回ってしまっているのだ。

 

かみつかれたらたまらない。

一刻も早く肌の表面へ戻してもらいたい一心で、オレは思い切って男に声をかけた。

 

「あのう、すいません…… 大変申し訳ないんですが背中の竜が外に逃げてるようなので……」

 

刺激しないようにいったつもりだったが、男は他人から話しかけられること自体が気にくわなかった

様子で、オレがすべていいきらないうちにすごみをきかせて、「ああ!? なんだこら?」と

いってきた。

 

「え、いや、なんでもないです……すいませんでした」

 

せっかくきた銭湯で厄介なことに巻き込まれたくはない。

不快な気分で帰るのもいやだったのでオレはひとこと謝ると、すぐひっこんだ。

しかし、それでも竜が放し飼いになっている状態は気になってしょうがない。

 

噛みつかれたらどうすんだ? それで噛まれた箇所から毒がまわったらどうすんだ?

いや、というか竜って毒あるのか?

細長くニョロニョロとした生物は、すべてヘビと混同して見ていてしまってないか?

 

不安をめぐらせているうちに、竜の姿がいつの間にか見えなくなっていることに気づいた。

周辺をもう一度見回してみる。やはりいない。

浴槽にはられたお湯の表面にも泳いでいない。

‘飼い主’である男の背中の肌にも戻っている様子はない。。

 

はて、どこへいったのか?

 

ふと振り返って、浸かっている浴槽の背後にある富士山の壁画を見上げてみた。

職人によって描かれた壮大な富士山が壁一面にそびえている。

そして、その富士山の頂き近くの空に、さっきの竜が描かれているではないか。

この銭湯には今まで数回きているが、壁には富士山しか描かれていなかったはずだ。

 

そうか。どうやらあの竜はオレの前にいる男の肌を抜け出て、今度はこの銭湯の壁の中に

するりと入っていったようだ。

 

それからしばらく、オレはまたあの竜が壁から抜け出てくるんじゃないかとびくびく怯えながら

湯に浸かっていたが、オレが帰るまでの間は壁の中でじっとしていたようだった。

 

あの銭湯は大好きだが、また竜がいつ壁の中から抜け出て襲ってくるかわからない。

なので、しばらくの間は隣り町の銭湯まで足を伸ばすしかないかと帰り道でぼんやりと考えた。

 

 

 

③デビル

 

 

はっきりいってキミに子供ができたことを素直に喜べないんだ。

本当にごめんね。

 

あ、でもね、正直いえばちょっとは喜ばしいと思う部分はあるよ。

だって、ほら、今の日本て超高齢社会で少子化だっていうじゃない?

それを思えば、キミに子供ができたっていうことはちょっと助かるんだ。

ボクたちが老いた時代のことを憂慮すると、生活を助けてくれる「年金製造マシーン」が

日本にまた一台増えたわけだからね、うん。

そこだけにかんしては、お礼をいっておくよ。

 

ありがとう。

 

ボクたちの生活を支えるだけ支えてくれたら、あとはキミの子供が変な企業に飼いならされて

発狂しようが、飛び降りて自殺しようがボクにはしったこっちゃないから。

 

ああ、そういえばキミはよくいってたよね。

どこの会社だってつらいんだとか、仕事がつらくて死ぬのは逃げだとか。

でも、キミみたいな人に限っていざ自分の子供が組織やコミュニティに追いつめられて

自殺したらきっとムキになって企業を糾弾するんだろうね。

キミはそういうやつだからさ。

 

そうそう、そういえば昨日、久々に夢を見たんだ。

生まれたばかりのキミの子供を、ニトリで買ったベビーカーに乗せて

ボクが街を散歩している夢を。

 

昼さがりの賑わう商店街を通り、多摩川沿いを抜けて、駅の改札で入場券を買い

ベビーカーごと改札を通り抜け、専用エレベーターに乗り込みホームへとあがる。

 

ホームには次の電車を待っていて列を作っていて、ボクとキミの子供はどこの列にも並ばず、

列と列の間で列車が来るのを待っているんだ。

 

そこに天からアナウンスが聞こてくる。

「――次にくる列車は特急列車です。当駅は通過します。危険ですので白線の内側までおさがりください」

 

どうやら通過列車みたいだ。

列の乗客がすこしだけ後ろに後退した。

 

カラカラカラカラ……

 

だけど、ボクだけはベビーカーをゆっくり押しながら、だんだんと前へゆく。

そして白線ギリギリ手前くらいで止まったんだ。

 

轟音をとどろかせて特急が走ってきた。

ホーム手前より100メートルくらいのあたりで車両の先端が視界に入る。

 

ボクはベビーカーを両手でかかえて、持ち上げた。

ベビーカーだけならば、さほど重たくないだろうけど、赤ん坊とはいえ人ひとりが中に入った

状態だとさすがに重たかったね。

 

周囲にいる人たちも、「こいつ、なにしようとしてるんだ?」みたいな目でボクを見てた。

だけど、それだけで誰もボクになにをやっているのか訊いてはこなかった。

日本人の危機感なんて、所詮そんなもんさ。

みんな自分のことしか考えていないんだよ、わかるかい?。

自分に与えられたことだけ一生懸命やるというのは、いいかえれば他人への関心は捨てる

ってうことだから。

 

通過電車がホームに滑り込んで数メートル手前まできた。

 

「せーの……    !!!! 」

 

ボクは勢いをつけて、思い切り線路上に放り投げたんだ。

かかえていたそのベビーカーを‘中身ごと’ね……

 

ベビーカーが宙を舞っているわずかな時間、

ホームに立つボクの目と宙を舞うキミの子供の目が一瞬あう。

 

宙で半回転するベビーカーの中からキミの子供の目はボクにこう訴えていたように見えた。

 

「なんで、こんなことするの!?」

 

ボクは心の中で、こう答えてあげる。

 

「ごめんね、本当にごめんね……、でもね、これはキミのお父さんが悪いんだよ」

 

そして、すぐ直後にきこえてくるのは数種類の音や声。

 

放り込まれた‘中身入り’のベビーカーと、速度を殺さずホームに滑りこんできた列車が激突する

衝撃音は、そりゃあ、もうすさまじかったね。

硬くて大きな鉄の塊と小さく柔らかい肉が激しく接触する音。

 

罪深き親から生まれた罪なき小さな肉体。それを潰して遠くまで跳ね飛ばした先頭車両の窓ガラスが

砕け散る音もまた今でも耳の奥に残っている気がする。

 

キミが償わないのであれば、キミにとっての愛の結晶を砕いてバラバラにすることによって

償ってもらうしかなかったんだ、とボクは夢の中で考えたんだろうね。

 

そこでボクは眠りから覚めた。

目を開けるともう朝だった。

 

自分が殺人者になっていなかったことにひどく安心した。

だけど――

安心した反面で、ちょっとだけ「本当だったらよかったのに」と思っている自分がいた。

 

自分が犯罪者にならなかったことには安心したけど、

現実のキミが絶望と喪失感に打ちひしがれなかったのは、とても残念だったんだ。

 

こんなことを思うボクは悪魔のような人間なのだろうか?

手垢がついたような言葉で恥ずかしいけど、ボクの中に悪魔が住んでいるのだろうか?

 

でも、ボクは思っていることをこうして素直に認めて、すべて話している。

それがたとえ、よろしくないような思想であっても、聞いている人が不快になるような願望だとしても。

 

その一方で、キミは最低の人間であるにもかかわらず、嘘の気遣いや笑顔をふりまいて

生きている。

外では周囲の人間をさんざん侮辱しておきながら、家庭では家族のために必死に働くお父さんを

気取り、仕事を終えて家に帰れば、愛する我が子を抱き寄せてキスしたり頬ずりしたり。

ご立派。ご立派。

 

悪魔はやはりボクの持っている純粋な邪心よりも、キミの持っているヘドで固めたような

邪心のほうを餌として好んで、その肉体と精神に住みつきそうに思えてきたよ。

 

やっぱりボクは人間。

だから、なんだかんだ妄想したり夢みても、キミやキミの家族になにかあった

場合はしっかりと葬儀には参列させてもらうから、そこは安心してね。

 

真っ赤なネクタイをびしっと締めて参列させてもらうよ。

 

 

 

④ペガサス

 

「これ、あまり食べられない貴重なツマミなんだけど、おススメだから食べてみて!」

 

生ビールジョッキ2杯をあけたころ、盛り合わせで頼んだ串の最後の一本を惜しみながら

口に運ぼうとしたとき、カウンターの向こうの大将が一枚の皿をさしだしてきた。

 

小田急線の喜多見駅から少し歩いた路地裏に佇む居酒屋「長戸」はオレが週に一度は

通っているお気に入りで、その日も暖簾をくぐり、ひとりカウンターに腰掛けて吞んでいた。

 

屋号は「長戸」だが、経営者である大将の本名は稲川という。

先月還暦を迎えたと前に来た時に誇らしげに語っていた。

 

なんで「長戸」という名前なのかと一度訊いたことがある。

大将は年齢に似合わずクイズ番組が大好きなようで、過去放送されていたクイズ番組に

そんな名前のチャンピオンがいたらしい。

それで自分も居酒屋業界のチャンピオンになれればということで、「長戸」という名に

あやかったそうだ。

 

そんな「長戸」の大将がオレにすすめてきたその皿の上に盛られた物を見ると、

なにかの生肉のように見えた。

 

「それはお代いらないからさ! まぁ、ちょっと食べてみな!」

 

馬刺しに見えなくもないが、馬刺しにしては色が微妙に白い。

 

「大将、なにこれ?」

とりあえず訊いてみた。

 

すると、大将は一拍ほどもったいぶって、ニヤリとすると、

「ぺガ刺しだよ」

と、答えた。

 

聞き間違いだろうか? 大将は今、‘ぺがさし’ と口にした気がした。

だが、三十数年生きてきて、それなりに酒場にも通ってきたオレでも

そんな響きの肴は今まで聞いたことがない。

 

「ぺがさし??」

思わず串を持つ手をとめて、ふたたび大将に訊いた。

「そう! ぺガ刺し! ぺガサスの生肉だ。美味いぞ」

大将はそういった。

 

「ペガサスって、外国の話とかファンタジーによくでてくるあの架空のやつ?

たしか上半身が人で、下半身が馬だったっけ?」

「ばかやろう! それはケン……ケンタなんとかっていうやつだろ!ペガサスっていうのは

あれだ! ほら! 白い馬に羽と角が生えた馬みてえなやつだ!」

 

オレの勘違いを叱るようにばかやろう!といってきたわりには、大将自身もその人と馬の合体の

正式名称をはっきりおぼえてないようだ。

そうそう、それはケンタウロス。

酒もいくらかまわっていたこともあり、つい勘違いしてしまった。

ただ、ケンタウロスにしてもペガサスにしても人をばかにしたようなふりである。

 

この店のカウンターに座るようになってから、もうかなり長いと自分では思っている。

それなのに大将はオレのことを小馬鹿にしているのだろうか。

それとも、常連だからこそ愛嬌でオレを楽しまそうと冗談をいってきているのだろうか。

だが、皿を差し出している大将の目を見ると、どうも冗談には映らなかった。

 

皿の上にある肉がなんなのか、この時点ではわからないが好意には間違いない。

また飲食店だけに口にいれられない物や毒性のあるものは客にださないだろう。

 

「それならば、ありがたくいただいてみます」

オレはそういって皿を受け取ると、目の前に置いた。

 

改めてまじまじと眺めてみる。

近くで見ても、やっぱり色がちょっと白い馬刺しのように見える。

 

箸で一枚をぺらりとつまみあげ、横の窪みにあったわさびじょうゆに浸し、口に運ぶ。

大将がカウンター越しにその様子を興味深々に見ていた。

 

「どうだ! うめえだろ!?」

 

美味いという返事以外は絶対に返ってこないだろうというような自信満々の顔で大将が

訊いてきたが、まだ口に入れたばかりでしっかり咀嚼してないから、味が伝わってきていない。

 

「どうだ!? どうだ!?」

大将はしつこく訊いてきた。

 

数回ほど噛んで口の中で転がしたとき、オレはその味を舌に感じた。

 

これは美味い。ずば抜けてというほどではないが美味い。

だが、オレもよくしっている馬刺しの味だ。

本当にペガサスの肉ならば、今まで食べたことのない不思議で斬新な味であるような

気がしないでもない。

 

なんと感想をいっていいのかわからないので、とりあえず素直に美味いか不味いかだけを

いっておこうと思った。

 

「美味いすね」

オレがいう。

 

「だろう! 今はかなり貴重な肉なんだ」

大将が答える。

 

ヘタに疑うような質問すると大将が機嫌を損ねるような危険も感じられた。

ここはもうすこし探りを入れるような質問をしてみることにした。

 

「あらためて訊きますが、じゃあ、これはペガサスの馬刺しってことですよね?」

 

「ばかやろう! ペガサスはペガサスだろうが! 『ペガサスの馬刺し』なんて言葉は

おかしいじゃねえか! おまえさんが今いった言葉は『豚の焼き鳥』っていうのと同じだぞ!」

 

なにかとあれば簡単にすぐ人のことをばかやろう呼ばわりする人だ。

だけど、その気質がまた受ける人には受ける人気の秘訣なのかもしれない。

 

それとは別にいっていることはいってることでわかったような気がした。

ムーミンはカバに似ているがカバじゃなくて妖精だ。

キティちゃんはネコに見えるがネコじゃなくて妖精だ。

それと同じ理論で、ペガサスも馬に見えるが馬じゃない。

 

馬は馬。

ペガサスはあくまでペガサス。

大将はそれをいいたかったようだ。

 

オレの質問がうかつだったというよりも、大将が本気でペガサスの肉だといってるという

色がますます濃くなってきた。

そっちのほうが気になってしょうがない。

 

オレにはまだこれが本当にペガサスの肉なのか、それともただの馬刺しをペガサスの肉だと

いわれて食わされているのか判断しかねた。

 

頭の中でひとつの話が思い浮かぶ。

ある一隻の船が航海中に難破した話だ。

 

タイトルはなんだっただろうか?

……

ああ、そうそう。 たしか『海亀のスープ』とかいうタイトルだったと思う。

たしかフジテレビで放送されていたオムニバスドラマでも、いかりや長介主演で

リメイクされていたのを観た記憶がある。

 

嵐の真っ只中の大海原と、小田急線喜多見駅近くの路地裏……

状況こそまったくことなるが、今こうして「ぺガ刺し」と大将が呼ぶ肉を座って食べている

オレと、その『海亀のスープ』の世界観がすこしずつ重なりあってくるような奇妙な感覚を

おぼえた。

だけど不思議と微妙に口の中が心地よい。

 

オレはもう1枚、箸でつまむとすぐ口に放り込んだ。

美味い。

肉は優しい柔らかさを帯びていた。

オレはついつい、表情を緩ませてしまう。

 

なんだかんだでいにすべて食べてしまった。

「美味しかったですよ。ごちそうさま」

と大将にいうと、大将は今度は黙ったまま、ただただ嬉しそうな顔をして何度も頷いた。

 

「ぺガ刺し」という肉が美味かったのは素直なオレの感想だ。

だが、正直それが本当にペガサスの肉であるのかという件にかんしてはもう信じたという

わけではない。

その件だけでいえば、はっきりいってまだ疑っている割合のほうが大きかった。

 

「ぺガ刺し」の落ちつきのある美味さと、ほどよく回ってきた酒でいくらか気分がよくなった

オレは半分意地悪な気持ちで大将にこんな質問をしてみた。

 

「ねえ、大将。そういえば最初にこのペガサスの肉は今とても貴重だっていってたけど

ペガサスってどこで捕獲してんですか?」

 

きっと答えに困って、しどろもどろになるだろう。

そんないやらしい期待がオレの中にあった。

肉はたしかに美味い。

だけどアレは馬刺しだ。

大将がオレをかつごうとしてるんだ――

 

オレの心の底にはやはりそういう考えがあった。

 

しかし、大将は一秒も戸惑うこともなく、すぐにこう答えた。

 

「おまえや、その他そのへんで生活しているやつらの想像力の中で捕まえてんだよ」

 

……?

おまえ?

そのへんのやつら?

想像力の中??

 

聞いた瞬間、頭が混乱した。

冷静になり、もう一度落ち着いて大将に訊く。

 

「想像力……の中ですか??」

 

「そうだよ。想像力の中」

ひとこと答えると、大将はさらに言葉を続けた。

 

「おまえさんだって人間だから、生きているときに頭の中でいろんなこと考えたり、

想像したりするだろ? どうやったら銭が儲けられるとか、女の子にモテるかとか、

どの馬に賭けたら大穴が当たるだろうとか、暗闇歩いてて見えてはいけない人影が

見えたらどうしようとか、そういうことをよ。

そうなんだよ、本来人間っていうのはよ、頭の中でいろんなものを想像したり

生みだしたりできる生き物なんだよ。頭の中のイメージだけならばなんだって創造できる

んだ。

 

だけど最近のやつらといったらどうだ!?

頭の中にあるのは実益になるつまらないことばかりだ。

金だとか、高級車だとか、マイホームだとか、出世した自分の将来像だとかよ。

どいつもこいつも想像力の世界が現実主義であふれてしまって、子供の頃にいろいろ

頭の中で描いたり創造して生み出してた感覚を失っているやつばかりじゃねえか。

そういう連中の想像力の世界じゃ、ぺガサスは生息できないんだよ、残念だけど。

ペガサスだけじゃねえ。ギリシャ神話のイカロスだって竜だって悪魔だってそんな息苦しくて

狭い想像力の世界じゃ、産まれることも生きてゆくことも難しいんだ。

だから、今……ペガサスはなかなか確保できないんだよ。

 

想像力のある人間が減っているってことは、それだけペガサスが生まれて育つ牧場の

ような場所がなくなってるってことだからな。

 

おまえさんが食べた「ぺガ刺し」は、そんな今の時代でも人々を楽しませようと

必死に脚本の勉強をしている若い大学生の女の子の想像力の世界から捕まえてきた

貴重な一匹のペガサスの肉だよ……」

 

そこまで語ると大将は黙った。

そしてオレを見守るように優しく微笑んだ。

 

 

 

 

©ケン74 

2018年 オール書きおろし&オリジナル