告白 三島由紀夫未公開インタビュー | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

このブログを読んでいるみなさんのなかに、

人から褒められて、ものすごい嫌悪感に陥った経験のある人はいるだろうか?

 

政治家や評論家がよく使っていた「褒め殺し」とかではなく、周囲の人間が本音で

褒めてきたことにたいして褒められている自分が嫌になった経験である。

 

太宰治が代表作の中で、

「写真の中で笑っている男(自分自身)を見て気持ち悪くなった」

みたいなことを書いていたが、それに通じるようなオレのケースをひとつふたつ書いて

おきたい。

 

このブログをずっと読んでくれている読者さんはもう十分ご存じかと思われるが、

オレは「いつも笑顔」「いつも声が大きくて元気がある」

というのが、人間のあり方の正解だとは思っていない。

かといって、別に不正解だとも思っていない。

 

極端に比較したとしてもそれぞれが個性であって、世の中にはいろんなタイプの

人間がいるわけだから、笑顔もネクラも両方とも正解だといえば正解だし、

不正解だといえば不正解のはずである。

 

以前も書いたが、作家の沢木耕太郎は記念写真や証明写真を撮る時、ついつい顔が

こわばってしまうため、カメラマンから「もっと自然に!」と助言されるが、

むしろ面白くもないシーンで笑顔になるほうが不自然で、こわばるほうが自然じゃないかと

語っていた。その論にはこれ以上ないほどに共感したものだ。

 

だからオレはいつも「笑顔」や「明るさ」や「声が大きいこと」=人間の正解だという概念と

戦うとともに、そういった自分の信念の守れる範囲で守るべく生きてきた。

 

ただ、綺麗事抜きでいってしまうと、それらをストレートに貫いて生きてゆけるほど

人生ロードというのはたやすくない。

人生というのは風雲!たけし城における竜神の池と同じか、それ以上に渡りきるのが

難しい川なのである。

 

これまでの集団生活や社会人生活を経験したうえでいえる言葉がオレにはふたつある。

 

ひとつは「朱に交われば赤くなる」

もうひとつは「郷に入っては郷に従え」

である。

 

ひとつめは、本来自分がそういうタイプじゃなかったとしても、そういう場に長く在籍すると

自然とそういうタイプになってしまうというケースである。

 

オレは生粋の文系男なので、基本的に体育会系のノリが好きじゃない。

もちろん、大声やら元気やら笑顔やらの強要概念はオレの信念がもっとも拒絶反応をしめす

カルト宗教的概念であった(笑)

 

だけど19歳の大学生の時、なぜかガソリンスタンドでバイトをしようと思い、面接時に当時の

所長から「大声はでますか?」ときかれ、なんとなく「はい」と答えて採用となった。

客商売だから元気と声の大きさは重要だったのだろう。

 

当時はまだ哲学の浅い若僧だったこともあり、今ほどの抵抗もなく、

「いらっしゃいませー!!!」

「レギュラー満タン入りやした―っ!!」

なーんて、大声で叫んでいたけど、長い間働いているうちにそのテンションをだせるのが当たり前に

なってきてしまった。

 

しかもその後、就職浪人を経て入った会社でまわった部署のひとつの朝礼も体育会系。

朝礼の挨拶は発言においても、とにかく「エライ人は元気ある人が好きだから、とにかく大声で!」

といわれて、それをやり続け結果、その声の大きさがオレの普通になっていった。

 

その後、短期間だけ働いていた会社とかの朝礼の新人挨拶でも、オレは自然に元気に大声が

でるようになっており、その会社の社長や上司からいつも

「○○くんは元気があっていいね!」とか

「○○くんは声が大きくていいね!」とか褒められることが多かった。

 

ここで冒頭の議題にまた戻るのだが……

 

人間として正直いえば、上の人から褒められたわけだからちょっとは嬉しい。

3割くらい。

 

だけど、いってしまえば7割は自分自身にたいする嫌悪感であり、その7割の暗雲が3割の嬉しさを

すっぽり包み込んでしまう。

 

元気で声が大きいというのは、本来あるべきオレの姿ではない。

そして、オレが世のなかでもっとも正解として認めようとしていない人間のあり方である。

(さっきも書いたが、かといって不正解と思っているわけでもない)

 

だけど、いろんな環境で過ごしているうちに、オレがもっとも認めたくなかったような人間に

なってしまったということに気づかされた嫌悪感。

 

なんだかんだで中身のないメッキだけのような笑顔や元気で上の人間から褒められて、

それでちょっと嬉しく思ってしまう自分自身の自覚なき保身欲。

 

偉そうなこといっても、結局はオレもそのへんにいるうわべだけのヘラヘラ八方美人営業マンと

目くそ鼻くそなんだと思うと、本当に自分という人間のチープさに嫌気がさし消えてしまいたくなった

りする夜が永遠にリピートされる。

 

たとえば気の合う仲間同士でプライベートで過ごしている時間などに純粋に楽しくて思いきり

笑ったりした時に、「笑顔が素敵だね!」とかいわれるぶんには良いのだが、営業で知らない客の

ところに飛び込んだり、大卒採用面接で最初からニコニコしてドア開けて入るような不自然な笑顔

をやっている自分の姿を俯瞰すると……

正直吐き気がするといっても過言ではない。

 

それでもやはり世間一般は、笑顔や元気や大声が大好きである。

そういった概念を持っている不特定多数にとって、そういったものは個性ではなくネガティブ

なのである。

 

自分と異なるタイプや少数派を認めるのではなくネガティブと評価して批判するのは簡単だから

オレはそういう人たちとまともにぶつかりあう時間は不毛だと思っている。

これは批判ではない……

悲観だ。

 

だけど悲しいことに現実は現実であり、多数派こそ正解という概念はいまだ根をはっている。

 

オレは今後、人前に立つ度または人と会うたびに、笑顔で元気よくしゃべれば周囲の人間の

期待には応えていることになるだろう。

 

だが、そのたびに自分自身を裏切り続けているというものすごい嫌悪感と罪悪感に包まれる。

これはオレが本来ありたい姿じゃない。

ビジネス笑顔、ビジネス元気、ビジネス大声はオレがもっとも忌み嫌う思想。

アナ雪じゃないが、それこそありのままの自分を気に入ってもらってこその信頼関係が築ける

と思っているが、組織のエライ人たちと、オレのような人生不適合者と、本当に真摯な営業マンなど

を見抜ける取引先のそれぞれの間には、それこそフット後藤風にいうところの「高低差あり過ぎて

風邪引くわ!」というほどの温度差が存在する。

 

世の中の概念。個人の哲学。古い人たちやエリートのビジネス論。

 

この3つの歯車はどうやっても噛みあわないというのが宿命なのか。

 

はっきりいってしまうと、オレは多数派概念の亡霊に憑りつかれた人間から「明るくていいね!」

といわれるよりも、人間の本質を見極められる能力を持った人から「おまえ、暗いな! でも…」

といわれたほうがなんとなく嬉しい。

こんな感覚持っているのオレくらいかもしれない。

 

そうそう、今まで書いてきたことを踏まえてだが世の中には【ピエロ】という言葉がある。

漢字で書くと【道化師】。

 

サーカスに登場するメイクしたキャラという意味もあるが、形容詞としては道で化かす人

という意味だ。

 

道・化・師

 

……

 

この3文字の並びを改めて眺めてみて感じたことがある。

 

人を化かす、あるいは馬鹿にするという意味も当然あるが、捉え方によっては

自分自身を誤魔化して生きてきた人間というような捉え方もできないだろうか。

 

つまり、自分の人生(道)を、誤魔化してきた(化)、人間(師)。

ここまで書いてきた自分の生活を重ねてみて、最近そう思った。

 

この生き方、この表情、この態度は本来あるべき自分の姿じゃない。

 

だけど収入のためや、人間関係維持のため、自分自身を誤魔化し続けてオレは

生きている。

 

つまりピエロ(道化師)。

 

ついちょっと前、図書館にいったら比較的最近発行された三島由紀夫のインタビュー本が

置いてあったので、ラッキーと思って速攻で借りてしまった。

 

オレが書いてきたピエロとはもしかしたら意味合いが異なるのかもしれないのだが、

その本の中でも三島が、

 

「生きているというのは、人間はみんななんらかの意味でピエロです。これは免れない。

佐藤首相でもやっぱ一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということは

ありえないですね」

 

「小林秀雄も言ってますけど、人間は死んだ時初めて人間になる」

 

と書いていて、一見皮肉っぽく聞こえるが、実はものすごく的確なことをいってるように

聞こえた。

 

 

 

オレは思う。

 

「おまえのためを思って」などといって他人を批判したり、他人の悪い部分を指摘するのは

それほど難しいことではない。

 

本当に難しいのは、自分自身が誤魔化している部分を見つけようとし、さらにそれを認め、

人からいわれてからでなく、自分からそれを素直に告白できるかということだ。

 

三島の多くの発言は自分自身にたいする自問自答でもあるんじゃないかと感じた。

 

一見、厭世や世間批判に見えるが、実は自分自身の弱さや矛盾ともしっかり向き合っている男たち。

それが三島、そして太宰ではないだろうか。

 

太宰や三島とオレらの違うところ…それは、

 

彼らは自分たちが「ピエロ」であることは認めている。

 

だが、世間一般と違い、それについて「社会を生きてゆくうえで、それが立派で正解である」

とは決していわない。

 

ビジネス書よりも読む価値たっぷりある1冊。