もう9月。
あっという間に8月も終わった。時間の流れが早い。
先週末、ひとりで国分寺の「多古屋」に呑みにいってからももう一週間経ったと思うと
なおさら早い。
また、ちょっとしたらひとりでどこか店見つけて入ろうと思うのだが、オレと同じようにひとり呑み
をする人は、店の席でなにを考えながら酒を呑んでいるのだろうかと思うことがある。
オレはなにを考えながら呑んでいるかというと……
そうだな……
もういい年齢なので、自分をどのように磨いていけば女性にモテるチョイ悪オヤジになれるとか、
あるいは、今後待ち構えている仕事にたいする取組み方にたいして、自分自身の弱い部分をどう啓発し、克服してゆくか?……
なーんてことは当然微塵もミクロンも考えない。
かといって、なーんにも考えないわけじゃない。
酒を呑みながら考えてみることや、哲学することはたくさんあるのだ。
たとえば――
オウム真理教が誕生した理由、連合赤軍が方向性を誤った原因、特攻隊の哀愁、民主党崩壊、
三島の割腹に太宰の自殺、市橋達也の逃走、林真須美のカレー、宮崎勤の趣味、木島佳苗の
自画自賛、酒鬼薔薇にたいして薄れてきた社会の関心、佐村河内の嘘に、小保方のねつ造騒動
などなど…(危)
すまん、後半はちょっと盛った。
だが、そこまでではないにしてもある程度の関心があるのは事実である。
本当のところ、当時国分寺でひとりで呑んでいた時は、翌日に放送するテレ朝の昭和事件史特番における連合赤軍が楽しみだった。
実際放送みたら、途中まではいい感じだったものの、ナレーターの最後の〆方がちょっと納得いかない。
そこが世間の顔色を窺うメディアらしいと思った。
ひとりでいる時、こういう社会的なこと世の中の闇ばかりについて考えているとちょっとヤバいやつという
イメージがつきそうだ。
でも、冷静に視点の角度を変えてみてほしい。
オレ自身はたいした人間ではないが、しいて極端にいうと、そういうことばかり考えるのはいってみれば
「自分以外のみんなのことまで考えているから」
ともいえるのだ。
「どうしたらモテるか?」「どうしたら出世できるか?」「なにか資格をとろうか?」
それって、端的にいってしまえば自分のことだけでしょう。
その反面、社会を騒然とさせた集団や、震撼させた殺人者がどうして生まれたかということを考えるのは
そういった存在を生み出すことのない‘みんなが平和に暮らせる世の中にしたいから’という想いがある。
そのためにはそれぞれの団体や事件が生まれたのはなぜかという根底をさらう必要がある。
だから、オレは暗いとかヤバいのではなく、みなさんのことを考えているのだ←良く言い過ぎw
まあ、半分は極論&冗談でいった(半分はホンネ)だが、こういった着眼点自体は実はそれほど間違って
いないとも思っている部分はある。
たとえばかつて革命を叫び、過激派と呼ばれていた人たち。
その手段として武力や暴力を手段とすることは評価できないが、彼ら彼女らの思想の根底にあるものは
自分だけじゃなく、「みんなが平等に良く暮らせるシステム」を目指すことだ。
一方で平和に暮らし、社会運動などにも我関せずの人たち(全部とはいわない。一部)
そんな民衆は暴力も振るわなければ、騒動も好まない。誰も傷つけない。
平和主義といえば平和主義なのだが裏をかえせば、今の世の中が変わらず、貧困や不平等に悩む
人がいても、自分が穏やかに暮らせるならばいいという願望が少なからずあるとも思える。
‘自分だけではなく、他人のことまで考える価値観’というのは本当に難しいと最近思った。
うまくかみ合わない。そしてすれ違う。
皮肉なことに、他人の生活を考える人たちが暴力的になり、他人の人生を良くしてあげようと思わない
人たちが平和的でバッシングを受けない生活を静かに送る。
オレも昔から言動に誤解があるのか、人から「自分のことばかり考えるな!」といわれることがある。
それなのに、人びとを脅かすカルト宗教やテロや弾圧や差別について語ると、「そんなことについて
考えるヒマがあれば、資格の勉強やスポーツでもすれば?」といわれる。
資格や健康こそ、まさに「自分のこと」の代表みたいなモンじゃないのだろうかという疑問がいまだに
オレの中で解かれずにいる。
正直、もうワカラン。
以前に過激派からオウム信者になった早見慶子サンという女性の「カルト漂流記」という本の紹介記事を
書いたが、相互読者で仲良くさせていただいているぞっこんさんが、なんとその早見サンとお知り合いだということで、「もう一冊の本の紹介記事」を書かれていらしたので、そちらも図書館で借りて読んでみた。
『I LOVE 過激派』
![]() |
I LOVE 過激派
Amazon |
――
なぜ人は普通のサラリーマン生活や結婚生活をこなしていることを正常だと無条件に思えるのか?
「革命を目指す」という手の届かない目的にために人生を踏み誤ってしまった自分を蔑まなくては
いけないのか?
(エピローグより)
オウム信者時代だった「カルト漂流記」を読んだ時も感じたが、この本を読んでもやはり基本にある
のは「自分の生活ももちろん、他の困っている人も助けたい」「世の中の間違いを直したい」という
強い思いなんだなというのが伝わってきた。
人間て、なんだかんだいってもリアルな痛みや苦しみは当事者にならないとわからないもの。
そして本書の中にも書かれているが、自分がムリにでも頑張っていると、同じことを他人に要求しがち
である。
同じことを要求しがち。
これ、よくわかる。
オレも今まで自分が必死な時に、自分より楽そうな人間を見かけるとそういう視線で見ていた
おぼえもあるし、また同時に勝手に自分のやりたいことで勝手に頑張っている他人から
おまえは甘えているみたいな視線を感じたおぼえもある。
早見サンという人はそこらへんも自分を客観的に見ることができるのが尊敬。
そんな人でも道を踏み誤ってしまった。
優しさや他人にたいする思いやりというのは、場合によって権力や多数派に向けた武力となる。
その一方で平和主義や非暴力主義というのは、自分ひとりしか入れない核シェルターとなる。
そのふたつの思想の中間があればいいのだろうけど、それが簡単にできるのならば、とっくに
できているだろう。
元連合赤軍の植垣康博氏の書いた赤軍告白本も、多くの読者からそれほど重くなく、むしろ
アメリカングラフィティみたいな明るさが感じられたという声が多かったが、この「I LOVE 過激派」
もどちらかというと軽い印象で、抵抗なく読めた。
明るい印象ではあるが、決して過激派賛美ではなく、しっかり反省しているのも伝わってきた。