樋口毅宏「テロルのすべて」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

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戦争やテロ、弾圧に虐殺。


そういったニュースがテレビのニュースから流れてくるたびにあちこちから聞こえて来る声。

それが

「争いや憎しみからはなにも生まれない」

という世間大多数の声だ。


戦争に反対か賛成かなんて野暮なことには今さら答えるまでもないからあえて書かない。

書くまでもない。


だけどこの「争いや憎しみからはなにも生まれない」という言葉にたいして、オレは素直に

ウンと頷けない部分が昔からあるのだ。


たとえば戦争にしろ、闘争にしろ、争っている当事者双方にとってはそれが命だったり信頼で

あったりと失うものしかないかもしれない。


だけど、当事者ではない傍観者……、戦争なら傍観者にあたる国にとってはいろんなものを

生んでいるとオレは思う。


例によって今回も記事を最後まで読んでいただければいいたいことがなんとなくは伝わると思うので誤解を恐れずに書いてしまうと、戦争や争いやテロや憎しみは、なにも生まないどころか

「お金をはじめ、あらゆるモノを生んでいる」と思えてならない。


『新世紀エヴァンゲリオン』の1シーンで、迫りくる巨大な敵に向かい、軍隊がやたらと弾を

ぶっぱなすシーンがある。


その様子を画面で見ているリツコというキャラが「税金の無駄遣いね」とつぶやき、

隣りにいるミサトというキャラが「この世には弾を消費しとかないと困る人たちもいるのよ」

と同じようにつぶやく。


つまりどこかで戦闘があればあるほど、軍事産業が潤うというわけだ。


このように哲学ウンヌン関係なく、単純に利権がらみでダイレクトになにかが生まれると

いうケースもある。


これよりも複雑なのは、戦争の悲惨さがこの「争いや憎しみはなにも生まない!」という

叫びをフィルターとして通りぬけ、巨大な経済市場へと化けているんじゃないかという

「生まれる」である。


世界的に有名な映画監督が戦争の悲惨さを世界に伝える映画を撮ると声をあげたとする。

ここでまず撮影クルーの雇用が生まれる。


映画が大ヒットする。

監督と配給会社に多額の金が動く。


本当に映画の悲惨さを知るためにみるならば、ただスクリーンをみればいい。

だけどみんなジュースやポップコーンを買う。

客の財布から映画館と製菓メーカー、およびコカ・コーラへと金が動く。


有名作家が弾圧の悲惨さを伝える小説を書いた。

100万部を突破した。


作家に莫大な印税が入る。

書店に莫大な売り上げが入る。


出版社が原稿料を増やして「2作目も書いてくれ!」という。

2作目もヒットする。


本を買った客も「この人の作品は面白いから過去の作品も読んでみたい」と思い出し

過去に出した作品も売れ出して、さらに経済が生まれることにつながるのではないか。


「プラトーン」「7月4日に生まれて」「はだしのゲン」「アンネの日記」……


これらはすべて素晴らしい作品であるとは思うが、どうしてこの世に生み出されたかと

いったら、戦争という現実があったからというのも事実だとオレは考えている。


そしてどうしてたくさんの人から評価された実績があったかというと、それは実際にあった

戦争がそれだけ酷いものだったから、それを再現した演出が際立ったのも事実だと思える。


人類の歴史上、戦争という現実もしくは概念がまったくなく、争いが仮想上の事象としてあった

として、そういうのはいけないというメッセージを踏まえ、プラトーンやはだしのゲンが制作されたとしても、やはりリアリティに欠けてしまい、名作には及ばなかったのではないだろうか。


誤解はしないでいただきたい。

くどいようだが、上記の作品その他あらゆる戦争作品は素晴らしい物が多いと思う。

オレはそういった作品の批判なんかまったくしていないし、慈善事業のように、そういった作品を

無償で作成したり公開、販売しろなんていうつもりはない。


人間が動く限り、そこで大なり小なり金や意図が発生するのは当然のことだと思う。

戦争カルチャーを批判しているのではない。

少なくとも現象的に「なにも生んでいない」ことはないんじゃないかということをいっている。


極論をいってしまえば、そもそも戦争も戦争という概念も存在しない世界。

つまり、プラトーンもはだしのゲンもその他の戦争作品もまったく生まれなかった世界こそが

理想だったのではないだろうか。

でもそのような世界だったとしたら、現在までにおける世界のカルチャーはかなり乏しくなって

いたような気もする。


また、争いといえばテロに関しても同じだ。

海外でおきたテロは日本国内でもいろんなものを生んでいるのではないか?


テロリストが乗っ取った旅客機がツインタワーに突っ込む。

さらに続いてもう一機。

やがて崩れ落ちるニューヨークのランドマーク。


そんな映像が繰り返し何度も流される。


どうして何度も流される?

それはテレビ局が数字になるから。


こういう映像特番をやってくれて視聴率がいいのなら!と、ここでもスポンサーからテレビ局の

間で強い経済関係が誕生する。


そして、普段はあまり仕事のない国際情勢学者や軍事評論家の顔をやたらテレビで見かけるようになる。

テレビで顔が売れた学者や評論家は各地の講演などにもひっぱりダコ。

マネーは右へ左へ。需要と供給の嵐。


いやいや、生まれているのはマネーだけじゃない。


身近な例でいえば、我々の職場や学校、あるいはお酒の場におけるコミュニケーションツールも

生んでいるのだ。


これはオレ自身に対する自戒も込めてなのだが、我々はどうして旅客機がビルに突っ込む同じ

映像を何度も見るのか。


自分たちが生きた時代に起きた大事件を知って、忘れないようにするためならばあ1回か2回

その映像をみればもう十分まぶたに焼き付けられるはずだ。


それなのにテレビで流れているたびに観てしまう。

なぜか。

それは「悲惨な事故を忘れたくない」からではなく、単純に「すごい映像」だからだと思う。


本当に心の底から争いを憎み、それによって命を落とした人を憐れむ心が100%あるならば

映像はつらくて何度も観れないはず。

そして、その映像をみたあと学校や会社に行ってもテンションはあがらない。


オレも含めて、あのニューヨークのテロの翌日、職場や教室に入る前、あるいは家族や恋人に会うまでの間、

「おい! 昨日のテロの映像みたか! すげえな!」

って言葉をふりたくて、まずは目を輝かせてウズウズしていた人間は少なくないはず。


そして周囲の人間ともども、その話題でかなりの時間盛り上がったはずだ。


海の向こうでの憎しみと悲しみが、海のこちらで大盛り上がりの話題をしっかりと

「生んでいる」。


でも、これは人類の性質の問題であって、決して国民性の問題ではない。

逆に日本であのようなテロがあったとしてもアメリカも同様に盛り上がっていただろう。


ヘミングウェイは「ひとが死ななければ、戦争はこの世で最高のページェントだ」

といったという。


オレの思っている人間の正直な心理をいってしまうと、戦争その他あらゆる争いごとって

人々の心の中で99%は「絶対いけないもの」なんだけれど、自分の命に直接影響しない

限りは残る1%が「エンターテイメント」という位置づけなのだ。


だから、他国の戦争や内紛などの衝撃映像について、可哀想だのいいながら半分笑顔で

盛り上がり、会話に華が咲く。悪の華。


人は心のどこかで他人同士の争いや憎しみに惹かれている。



戦争は絶対にいけない。争いや憎しみはなにも生まない。

そういうけど、たとえば日本史上における戦国武将率いる軍の合戦なども、国内における

ちょっとした戦争といえるのではないだろうか。


オレは歴史詳しくないからすぐにぱっと出てこないのだが、教科書で習ったナントカの戦いとか

ナントカの乱とか、ナントカの合戦とかってすべて実際にあった争いだと思う。


それぞれの軍が戦う理念を持っていたのかもしれないが、それでもその戦いで実際に命を

落した人間が多数いるというのは事実だと思うのだ。


だけど、こういうシーンが大河ドラマや時代劇映画などで映像化されると、公開前のインタビュー

とかで監督や主演役者が決まって、「両軍の合戦シーンが見ものです!」とか「火縄銃による

撃ちあいが大迫力なので是非楽しみにしてください!」などと笑顔で大衆に呼びかける。


いや、作品における映像はあくまで再現だろうけど、モデルとなった争いは実際にあって

実際そこで命を落とした人もいるわけでしょう?

テロほど深いものではないにせよ、そこにもある程度の憎しみはあったはず。


そのシーンは笑顔で「見ものですよ~!」っていちゃっていいわけか?


争う背景や理念に多少の差があるとしても、互いに相手の命をとりにゆくという現象だけで

とらえれば、日本史上のおける数多の合戦や乱も他国の戦争も「今日はちょっと、みなさんに

殺し合いをしてもらいます!ダンカンこのやろう!」という意味あいで共通している。


実際にあった戦争を再現した映画のシーンにおいて、「いや~、アメリカ兵がベトナム兵を

銃でハチの巣にするシーンが迫力満点で見ものですよ!」なんていったら、とんでもないことに

なりそうだけれど、実際にあった戦国武将軍同士が争うシーンについてはそういっても問題ない

のだろうか。


もうずっと前の出来事だから時効なのか。

辛いこともいつか笑い話になるっていうあの感覚か?


実際に人が死んでいる合戦を演じているのを見てワクワクするというのもやはり

争いをエンターテイメントとして認識しているからではないだろうか。

これも大河好きな人を否定しているわけじゃない。

大河は見ないけど、オレも実在の戦いの戦闘シーンは好きだから。


ただ、自分の中で戦争や憎しみを数パーセントエンタメとして感じているとしっかりオレは

認めている。


だから「争いや憎しみはなにも生まない」とはいわないし、「戦争は100%いけない」とは

いわない。

99%いけないといっておく。


残りの1%は決して「賛成」という意味でもなければ「やむをえない時もある」といっているわけじゃない。

実際の衝撃映像を何度も観たり、戦争の話題で盛り上がったりしたり、あるいは戦争関連の作品を見たり本を買ったりしてそのぶんの経済を回転させている以上、偉そうに「100%反対」なんて

いえる立場じゃないという自戒の意味での1%だ。


ちょっと突拍子のないことを冗談半分でひとつだけいわせてもらうと、日本史の先生とかって、

歴史上、日本で戦国武将の軍同士におけるたくさんの殺し合いがあったからこそ、日本史教師

っていう仕事があるんじゃない?


俗にいう○○の乱とか、○○の合戦とか、そういうのがまったくなく、戦国武将も存在しない

歴史だったら、歴史の教科書なんてペラッペラじゃないかな。


いや、むしろ日本史ってコンテンツ自体の存在もさだかでない。


そういう角度でみると、過去に日本でたくさんの殺し合いがあったからこそ、日本史教師や

歴史学者の今日の職があるのかもしれない(笑)




すまん。

今回紹介する本が「テロルのすべて」って本だったから、タイトルに便乗してここまでオレの個人的な戦争論や平和論を前置きで書いてきたけど、本の内容とはまったくカンケーない。


てか、ここからが本の紹介(笑)



――

自分たちの都合のいいようにルールを決め、今なお世界の覇者気取りで澄ましているアメリカを、僕は心の底から軽蔑している。嫌いじゃない、大ッ嫌いだ。では、弱者が取るべき行動は何か。自分より弱者を見つけ、叩くことではない。強者の脳天に斧を振り上げることではないだろうか。そう。テロルこそもっとも有効な手段なのである。アメリカに、××を落とすのだ。注目の異才がどこまでも過激に紡ぎ出す、テロリズムまでの道のり。

(アマゾンより引用)


1986年に生まれた宇津木は自分の鬱屈の正体にきづいた。


それはアメリカに対する怒り。


相手になりきる想像力があってこそ、相手の息の根を止められる。という批評家のエッセイの

言葉をもとに主人公宇津木はあえてアメリカに留学にゆき、そこからテロルへ至る。


評価はわかれている作品である。


タイトルからしてハードボイルドっぽいがそんなことはない。

純文学とか戦争に対するメッセージを期待して読むと低い評価になってしまうだろう。


ハードボイルド風にパッケージされた大衆娯楽といった印象。

ところどころにワンピースやサザエさんや小林よしのりなどの日常的なネタがちりばめられている。

個人的には好きなテイストの作品だが、深みは期待しないほうがいい。


ああ、でもアメリカの息の根を止めるためにあえてアメリカにゆくっていうのはすごくわかるな。

記事でも書いたけど、オレがトレーニングいって鍛えるのもその思想に近いから(笑)



今回のもう一冊。


こちらも戦争関連。文学賞を受賞した作品「指の骨」。


指の骨/新潮社
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作者はオレより若い。

戦争をしらない世代が戦争の真っ只中を鮮明に描いたことが評価された作品。

よほど戦争を学んだようだ。

バブルを経験している世代じゃないのにバブルを勉強してネタにしている平野ノラなど

最近は勉強家が多いなと感心する。