仕事で取り返すという違和感 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

最近、朝テレビをつけると、なんか似たようなニュースばかりが飛び込んでくるような。


なんとなく感じることは、「不倫する」という言葉の代名詞が「ゲス」という言葉で定着しつつ

あるといったイメージ。


今年もまだあと10カ月残しているけど、対抗馬となる強力な「ワード」がこのまま出ないままで

ゆけば、先行逃げ切りで「ゲス」が流行語大賞になりそうな予感がするでゲスよ。

ドラマとかまったく観ないから、なんか流行っているセリフとかあるのかもしれないけど知らんし。


そう言えば、ちょっと気になることが。


当の騒ぎの時、騒動後初めてオモテ(ライブ会場)に姿を現した彼が、ファンに向かって

一言、「良い曲を作ることで取り戻す(お詫びする)」みたいな発言をしていた。


いや、彼だけに限らず、昔からプライベートで不祥事や騒動を起こした人間がこのテの

発言をするのは、よく耳にする。


歌い手だったら、今書いたように「いい歌を作ることで取り戻す」と言うし、

プロ野球選手だったら「野球をもっと頑張ることで、償う」とか。

一般社会の会社員の世界でも、何かしたらそう言う人はいるのではないだろうか。


そして、それを聞いている周囲も「それが一番!」と温かい目を向ける。



この発言と流れって果たして正しいモノなのだろうか?


オレから見ると、ツッコミどころ満載で耳にお届けされている気がするのだけれど(笑)


例えばシンガーソングライターや作家が仕事において盗作などをしたのが発覚して

それに対して、次回は自分の力ですごく良いオリジナルを生み出したいとかいうのならば

まだわかる。あくまで‘まだわかる’だが。


だけど、仕事とは全くカンケ―ないプライベートな時間で起こした騒ぎについて、それを

仕事に関するモノづくりで汚名返上したり、償ったりするってちょっと違和感を覚える。


もうすでに償うステージが違うということも当然あるけど、なんか上手く楽な方向に

逃げている気がする。



以前、このコラムにおいて、「被災地の人たちのために頑張って優勝した」という野球選手の

発言に違和感を感じたという旨の記事を書いた。


それに通じるものがあるのだけれど、プライベートで不祥事や騒動を起こさなかったとしても

その仕事(音楽、スポーツ、執筆、演劇、お笑い、映画監督など)は、もともと好きで選んでやって

いて、さらにおカネだってもらっているわけでしょう? それなりに苦労は伴うとしてもさ。


普段通りのことをやって、おカネもしっかりともらうわけだ。

だから、オレには何も立派なことを言っているように思えない。


前向き反省のように演出して言っているだけである。

サラリーマンだって同じ。


百歩譲って、それで売れたおカネをどこかに寄付するとかならまだわかるが、よく考えなくとも

犯罪じゃなければ、そこまで償うこともない。たとえ不倫でも傷つくのは当人たちだけだし。



そういうことで、プライベートでの騒動を仕事で償うという違和感がひとつ。


そして、その内容は償いでもなんでもなく、今までと同じことをこれからも継続すると宣言しているだけなんじゃないかという違和感がふたつめ。



最後。


オレは基本的にダメ人間なので、「頑張る」とか「死ぬ気でやる」とか「全力で仕事しろ」とか

いった言葉たちが好きじゃないのだけれど、業界でも一般企業でも、ふだんから自分はそういった

体勢で仕事していると謳っている人間や、そんなオーラを発しているアツい人間は多い。


「オレはいつも100%の力で働いている!」

「ワタシはどんな時も全力よ!」


といった人種の人たち。


最初に書いたように、何かあると仕事で取り返すと口にする人にこういうタイプが多い。


いやいやいや、ちょっと待て。おかしいぞ、ソレ。


何かやらかした後に、それを補ったり巻き返すほどの力と能力という「のびしろ」が

まだあるのであれば、今までそれを出し惜しみしており、、事実100%で動いておらず怠けていた部分があるというのを自分でも気づかないうちに口にして認めていたということになると

思えるのだ。


オレは松岡○造のようなアクティブな情熱派は好きじゃない。

だけど、口先だけじゃなくて本当に実行する人間はそれなりに認めている。


いつも100%の力を出して仕事していると言っているにもかかわらず、何かあったら

さらに上をゆく仕事をすることで、信頼と評価を取り戻すという人間はどうかなあと。


本当に普段から人を喜ばせるために、100%の力を振り絞って仕事をしたり、モノを創造している

人間であれば、たとえ不祥事や騒ぎを起こしていないにしても、普段からその「のびしろ」を引きだしているはずだ。


後ろめたいことをしていなくとも、無実の人を100人殺したからその罪と悪評をすべて

一掃するくらいの結果を出そうくらいの気持ちで動いてきているはず。

結果を出せる出せない、進め方の効率の良しあしはまた別として。


だけど、なにかをやらかしてからそれを巻き返せる力が事実あったとするのであれば

それはハナから全力で結果を出そうとか、人が喜ぶものを作ろうとなんてしていなかったと

オレは捉えている。


むろん、本人が自分で「オレは最初からそんな必死にやってませーん」と認めているのであれば

オレはまったく批判もしないし、むしろその正直さにすがすがしさすら覚えるけど。


熱血論は嫌いだけれど、言葉を上手く変換させた好感度アップ作戦はもっとキライ。



「取り戻す力」というのびしろがあるんだったら、何かやらかしてからじゃなくて普段からそれを

引き出して使えよ(笑)


そして、謝罪の際にはちゃんと


「今までも全力でやってきたから、これ以上の結果を出して仕事で取り戻すことはできません。

せいぜい現状維持です。だけど、それ以外のことで何か償うことができれば償います」



と筋の通ったコメントを言える人っていないのだろうか。



仕事は仕事。反省は反省。


そのぶん仕事を一生懸命にするっていっても、おカネはもらえる。

どんなにつらくて忙しい仕事だとしても。

働いてくれればそれだけ組織は喜ぶかもしれないけどさ。


おカネをもらう反省ならば、それは「反省ビジネス」



だったら、まだ仕事を自粛して、そのぶんおカネはいっさいもらわずに、その期間中

高尾山にでも行って滝に打たれる修行とかしている人のほうが、よっぽど反省もして

周囲にも謝罪を表明しているように見える。



最後にひとつ例を上げてみよう。


すごく才能があって、世間にも知られているが素行のとても悪い芸術家がいたとする。

その芸術家が、あるプライベートな時間に街に出て、同じく街に出かけていたアナタの

家族を意味もなく、意識不明の重症になるくらいまで襲ったとする。


芸術家は逮捕されたが、アナタの家族は幸いにも死亡まで至らず回復したため、

芸術家はある時に釈放された。


釈放された芸術家はその後、アナタとアナタの家族のところには一切謝罪にこない。

だけどテレビのインタビューでは騒動を起こしたことでファンの人には謝罪し

「芸術家として、これからいい作品を作ることで償ってゆきたい」と答えている。


もともとモノを作り出す才能のあった芸術家は、自分の評価と収入を回復させたい一心で

ヒット作品を連発。それにより今まで同様か、それ以上にがっぽりと稼いだ。



家族を傷つけられたアナタは、彼がこうして本来の仕事で結果を出したという事案を

果たして‘償い’というかたちで受け入れられるだろうか?




以上。あくまで個人の意見です。

このコラムの色だから多少極端に書きはしたけど(笑)