短歌ください | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

そう、例えば我が家の玄関のこの風景。


くつ

段差を境として「靴が置いてある玄関のたたき(下)」と「室内(上)」が写っているなんでもない

日常の風景。


港街が登場する、とある小説(中上健次)を読んだあと視界に入った瞬間に、なんとなく

「漁港」のように映った。


部屋の床の部分が桟橋とかで、その下のたたきの部分が外へとつながる海。

たたきの上に並べられている草臥れた靴は、その桟橋につながれた状態で、海の上に停泊

している漁船やらヨットやら。


視覚的に配置だけによるものでもない。


人間にとってもっともくつろげて安らげる場所は陸地。

つまりここでいえば部屋の中。溺れることもなければ雨風さらされることもない。


一方で穏やかな日もあれが大時化の時もあるようなのが外の海。

世間の荒波だとかいった表現もあるように、つまりは海である。


実際の天候が大荒れの場合も、あるいは人間関係や状況が大荒れの場合でもオレらは

毎日のように、船を出して海に出ないといけないわけだ。


じゃあ、オレらが‘乗る’船に該当するモノは果たして何か?

それは「靴」


それを自分の下にして繰り出すという意味では「乗る」も「履く」も状態的には同じようなもん。

海の状態によって繰り出させる船の種類も異なる。


ここぞというでかい取引先との交渉へ向けて出港するときは、荒波を超えたところにある島を

目指すつもりで、見た目も作りもキチッとしている最新型モーターボートに値する高めの革靴で

繰り出すのがいいだろうし、ちょっと近所に買い物する程度なら、オールだけのゴムボートに

値するビーチサンダルで繰り出すくらいで充分という考え方。


と、まあ、まだまだチープ極まりない発想力だけど、いろんな本を読んでいるとモノゴトや

状況をさまざまな視点から見れるようになってくるのも事実。


オレなんか全然ひよっこで、世の中にはずっと素晴らしく鋭い感性をもった人達がうじゃうじゃと

いる。


このコラムでも何度か名前を出して紹介しているがオレの好きな詩人に穂村弘という人がいて

その人がダ・ヴィンチで連載しているコーナーがあってそれが単行本化されている。

短歌ください (角川文庫)/KADOKAWA
¥605
Amazon.co.jp

一般の人が送ってきた短歌がテーマごとにわけられて紹介されている。

短歌のルールは「五・七・五・七・七」ということだけだ。

冒頭でオレが玄関と靴を見て港みたいだと書いたように、たくさんの人の

「○○はまるで××のようだ」

とかいうような比喩やメタファーが載っていて、それぞれの人の感性が垣間見えて

面白く勉強になる。

もちろん、そこには比喩だけではなく、直観や社会風刺、幻想から日常あるあるまで

盛りだくさんでとても面白い。

レビューもかねていくつかだけ引用して紹介してたい。

                                                          

『シーフードカレーは海の地獄絵図 えんまの母が鍋をみおろす』                               

なるほど。人間側から見たシーフードカレーは華やかな料理だけれど、エビとかイカ側から

すれば、同じ海の仲間がみんな刻まれて煮込まれて食べられて……と。

たしかに地獄絵図に違いない。着眼点の転換と比喩が見事。                                     

                                                        

『旗をふる人にまぎれて旗をふる だれも応援しませんの旗』

                                                           穂村サンの解説によると「旗をふる人たちはみな誰かを応援しているのでしょう。その中に

まぎれて〈私〉はひとりだけ違った旗を振っている。『誰も応援しませんの旗を』ということだ。

あらゆる大型イベントにおいてキャスターが「日本中が沸いた!」と叫んでいるのをきくたびに

「オレは沸いてねえよ」と心の中で呟いていたオレおよび一部の友人同志のようなすべての

マイノリティの言葉を代弁してくれたような鋭い短歌である(笑)。

                                                                              

『真夜中のデジタル時計は輝いて 00:00四つの卵』                                

ただ単に「0」という数字のカタチがタマゴに似ているというだけではない。

デジタルの数字がすべて0になるということは日付が変わるということ。

つまりは明日が生まれる瞬間だと言う意味もあるんじゃないかと感じた。

やがて一番右の「0」が「1」に変わった瞬間がタマゴの殻が割れて雛の頭がヒョコってでた

瞬間だととらえられる。

数学的にも文学的にもとらえられるところが素晴らしくうまい作品。                                


『ケータイの電池の値段ケータイで 調べてるうちに電池が切れる』                              

いわゆる「あるある」。くすっと笑える一作。

                                                                      

『ペガサスは私にはきっとやさしくて あなたのことは殺してくれる』

                                                            

ほほえましい幻想と狂気が同居する一行。 人間の二面性を隠さず表しているようで

嫌いじゃない。                                                             

                                                           『酸性雨ばかり降らせた人たちが 飲むアルプスの天然水よ』                                        

矛盾をついた風刺。さすが。

                                                                        

『あと一歩前へ トイレの貼り紙をホームの端で思いだしてみる』                                 

女性はわからないかもしれないけど、男子トイレの便器の上にはこう書いた貼り紙がある。

世の中をチクっと刺すブラックネタ。すべての前進が前向きだとは限らないぞという綺麗事への

警告か。                                                                      

                                                                       

『五十メートルごとの自販機の小宇宙 地球は青いポカリスエット』                              

人生はよく山だとかゲーム盤だとかに例えられる。                                

そのように実体のないものでも実体があるものに例えられたり、広い世界は小さいモノに

逆に小さいモノは広い世界に例えることも出来る。

オレが最初に書いた玄関のチープな例えもその部類に入ると思う。

この短歌を作った人は日常生活で街を歩いていて普通に目に入る自販機を小宇宙に見立てた

感性がすごい。

見本の中に並べられたいろんな色の缶が宇宙に存在するさまざまな惑星ならば、その中でひときわ輝く青いポカリスエットの缶が地球という世界観。

水分補給メインのポカリと、水の惑星と言われる地球の関係性もあてはまっている。

(そこまで解説なかったがオレの想像でたぶんそういう意味もあるんじゃないかと)                            

                                                                       

うーん、掲載されている短歌を読めば読むほど、感心させられると同時に自分の表現力の

甘さを思い知らされる。

なんというか心地良い敗北感。                                                             

世の中にはすごい着眼点をもった人たちがたくさんいるもんだ。

最後の誌の人なんかは頭の中にものすごく素晴らしい「変換キー」を持っているんだなって

オレは感じた。

多くの人は自分の脳ミソの中で「じどうはんばいき」って言葉を浮かべてから「変換キー」を

押した場合、そこに表示される候補は

「自動販売機」

「ジドウハンバイキ」

の2候補だけだろう。                                                                      

だけど最後の作者の人は頭の中で「じどうはんばいき」を浮かべ変換しようとキーを押したら

「自動販売機」

「ジドウハンバイキ」

だけではなく、そこに次いで

「小宇宙」                                                                          

とも候補が表示される優れた感性の「変換キー」を脳の中に備えているんだと思うな、オレは。

いやいや、その3候補だけじゃなく、表示される変換候補ワードが実はまだたくさんあるんだろうな

とさえ思う。  

まだまだモノ書きとしてもブロガ-としても表現力が未熟なオレの中の変換キーは

「げんかん」を変換しようとしても「玄関」「ゲンカン」「港」の3つしか変換候補が表示されないが、

今以上にもっと本をむさぼり読んだり、小説やコラムを書き続ければ、気が付いた時に

「げんかん」と打ちこんで変換キーを押したら、そこにはたくさんの変換候補ワードがいつの間にかずらっと並んでいたという時がくるかもしれない。                                            

なんてことを思いながら、今夜もこうしてここまでコラムを書いてみた。

自分なりにちょっと「キマッた!」と思ったところで今日はこれまで(笑)

実際、この本はいろんな人に読んで頂きたい。

とくに自分は想像力が弱いとか文章が苦手だと思っている人にはね。