大学生時代に働いていたバイト先の店の社員(ほぼ同年代)のひとりは転勤で地方から東京へ出てきた社員だった。
友人にもなったその社員が東京へ越してきてからある程度たったある時に、仲が良かったこともあって、共通の休日の予定だった日に「代官山へ買い物いきたいから一緒にこない?」と声をかけられた。
当時……というか今でもダイカンヤマだとかオモテサンドウだとかヒロオだとかいう街に関しては
オレのような流行受信アンテナおよびブランド嗜好が内蔵なれていない人間は足を踏み込んでは
いけないような領域というニュアンスがぬぐえない。
というか、価値観や好む文化が異なるので踏み込んでも何も感じ無さそうだ。
今の年齢でもそう思うくらいだから、当時もダイカンヤマという街にはさほど興味なかったが
逆に言えばそれまでもいったことはなく、またこれからもこういうふうに「誘われない限りは
ゆく機会がない」だろうと思ったから、興味本位と社会勉強で一緒に行ってみることにした。
到着してみると、まあいかにも「ダイカンヤマ」といった感じの人が歩いている。
歩いている人間のファッションや醸しだす雰囲気がオサレで、全員がデザイナーやら
ダンサーやらアーティストやら芸術関係の学生やら、NIGOのマネしたゴルゴ松本やらに
見えてしまう。
社員の友人は次から次へとオサレな店をはしごして見てゆくのだが、それまでに
ジーンズメイトがファッション業界のすべてで、その後「ライトオン」にも行き出したことで
自分がとてもステージアップしたような満足に浸っていたブランド音痴のオレには
聞いたことのないようなブランド店ばかりで、値段もはるうえに、ああいうコジンマリとした
民家改造タイプっぽい店は飲食店ならいいけど洋服店ではすこし肌に合わなかった。
その日、たくさんの店をついてまわったが、驚いたのは地方出身のその友人社員が
やけに代官山の道路、抜け道そして店舗の情報を知っており、どんどん歩きながらオレに対して
「ここをもうすこし行けば○○屋があるんだよね」とか「あそこの○○が有名なんだよね」とか
言ってくることだ。
ブランドの名前なのか外国のロックバンドの名前なのか新発売のデザートの名前なのかも
わからないようなカタカナを次から次へと口から出され、とりあえず「うん」とか「そうそう……」
とか言って頷いておいたが、正直その友人がいう店が本当にそこにあるのかとか、まったく
知らなかった。
友人はオレが「東京の人間」だというだけで、当然知っていると思って「○○だよね!」と
言ってきてたらしい。
その友人が代官山についてオレなんかよりも店から裏道までいろんな情報を知っているのを
ことで思った。
ずっとそこ(東京)に住んでいる人間よりも、そこに一度もいったこともなく住んだこともなかった
人間のほうが、関心や憧れがあるぶんだけ、下調べや情報収集をものすごくしているから
詳しい
……と。
実際、東京と言っても全エリアが栄えているワケでもないし、汚いには汚いし、憧れるほどの
場所でもないのだが、とはいってもやはりそれまで来たことのない場所という意味では、
一度もしくは無期限でも、行ったり住んだりすることにワクワクするのかもしれない。
灯台もと暗しとはちょっと解釈が違ってくるかもしれないが、ファッションや食とかの趣味に
一致する店があるかないかの問題は別にしても、自分が住んでいる街(都道府県)のことって意外と知らないことが多く、ヘタしたらそこに関心や憧れを持っている人間のほうが雑誌なりなんなり参考文献を読みあさり詳しいかもしれない。いや、詳しい。
「街」を「人間」に置き換えると同じで、人の長所や短所はすぐにきづくけど、一番身近にいながら
自分自身のことをよくわかっていない人間が多いのも似ているかも。
よく耳にする「客観的に自分を見ろ」とはそういうことかも。
自分自身のことだけは、どんなに偉くなっても簡単には見えてこない。
東京タワーもスカイツリーもその頂上からはいろんな人を見降ろすことが出来るけど
そんな権力をもったタワー達でも自身の全身を見降ろすことは出来ないのだから。
そんな流れを踏まえてやっと本題(笑)
ここ最近、日本人以上に「日本人らしい」外国人の存在が目立つ。
彼らは誰よりも日本語や日本の歴史に詳しい。
方針に対する考え方があっているかとかは別として、日本の政策知識にも精通している。
ロバート・キャンベルとかそのへん。
日本語がヘタな‘フリ’をした芸風でブレイクしたボビー・オロゴンとかも何気に歴史や文化に
詳しい。松尾芭蕉とかのことも詳しく知っているクセにバカなフリをしていたが、だんだんそのメッキ
が剥がれてきた。
放送中に共演していた小さい息子から
「お父さん、何で家では普通に喋っているのに、テレビ出た時はバカみたいな喋り方するの?」
と突っ込まれた時。
「オマエ、ナニ言ッテンダヨ! 家デモ普通ニ シャベッテネエダロ!」と慌ててキレていた。
「家でも普通に喋ってねえだろ」ってオカシイだろ……(笑)
でもそういう彼ら外国の人がこうして日本にきて、そこまで日本語や文化や歴史の詳しいというのはやはり「日本が好き」「日本にとても興味がある」からだと思う・
それは日本人としても嬉しいことである。
最近読んだエッセイの著者であるアーサー・ビナード氏もそう。
日本語と日本を愛するアメリカ人である。
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とにかく日本語の使い方が巧みであって、また日本における文化の知識もすごい。
おそらくこのアーサー氏のみならず、ここまで名前を挙げた外国人の方々とガチで
日本史のクイズ対決をやったらオレなんか大差でまける自信がある。
ただでさえ歴史弱いし。
だって日本の偉い武将とかって名前の最後にやたらと「盛」とかつけるからまぎらわしいじゃん。
解釈が正しいとか間違っているかとか関係なく、日本好きな外国人の人がしたためたこういう
文章というかエッセイって好きだ。
ナショナリズムとかを排除した一人の訪問者としての素直な感想が書いてあるから。
お決まりのようにアメリカ人からみた日本の文化のことが書いてあるのだが、それは決して
アメリカ寄りの意見ではなく、あくまでニュートラル。というよりも日本寄りか?
政治と政治という意味での「国交」という目でアメリカとの関係を見てしまうと、それこそスケールも
大きくなり、またナショナリズムが絡んできてしまうが、こうして日本にいる日本大好きの
外国人の人からみた日本とアメリカのそれぞれ素晴らしいところ、変わっているところを聞くと
互いに反省したり、ある時は尊重したりしないとイカンなあとか感じる。
以前に記事でもちらっと書いたが、オレがひとりで某巨大温泉に出向いた時、
大学生くらいの若い男3人組が、湯ぶねの中でタオルを投げ合いキャッチボールみたいな
マネをしていて、すぐ横で1人で浸かっていた白人男性に日本語で
「チョット!チョット!静カニ! マッタク貸切ジャナインダカラ……」
と怒られていた場面に遭遇したことがあった。
その時、その男三人に対して、同じ日本人としてすごく恥ずかしく思ったのと同時に
ひとりでくるくらいに日本の温泉が好きで、さらにマナーもしっかりわかっている外国の人の
存在が嬉しかったのもまた事実。
このエッセイのタイトルの元ネタはいうまでもなく宮沢賢治の有名な詩である。
それはもちろん日本を愛するアーサー氏がリスペクトの意味もこめてつけたというのもあると思うが、日本は日本で素晴らしいのだからアメリカに対して堂々としていいのだというメッセージでも
あると感じたのはオレだけだろうか?
小説のような長編物語の読書が苦手な方にも読みやすいエッセイだと思うので是非。