才能を出してくれればいい | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

某番組にて、あるお笑い芸人がスタジオジブリに手伝いに来て、「風立ちぬ」のキャッチを

考えるという企画で、「頑張ります!」と言った芸人に対して、ジブリの鈴木プロデューサーが

こう返したという話を聞いた。

「頑張る必要はない。才能を出してくれればそれでいい」 と。


コレを聞いて、さすがイイこというなあと思った。

相手を認め、理想論を言わないまでも、それなりにプレッシャーは与える。

オレはこういうふうに言われたら、張り切ることが出来るかもしれない。


考えかたは人それぞれだから、別に善悪をつけるつもりはないが、好き嫌いで言うと

オレは一番嫌いな期待のかけられ方、また、励まされ方は

「頑張れ」と「やれば出来る」の2つ。


以前にも書いたかもしれないが、まず「頑張れ」というのは言っている人間は無意識かも

しれないが、基本「上から目線」だということ。

かつてジミー大西のギャグで、頑張れよと言われたジミー大西が「おまえも頑張れよ」と

返すのがあったが、あれはまんざら完全なネタでもない。


人間なんて、ただ生きているだけで皆頑張っているようなものだ。

そんな中、他人に対して頑張れよなんて言う余裕があるヤツなんて普通はいない。

椅子にふんぞりかえっている奴か、下に人間にすべてやらせてくつろいでいる奴かくらいだ。


でも、たまに人と話している時に、言う言葉が思いつかずに、ついつい「頑張って」と言ってしまう

ことがあるのはオレも反省しているが、基本はあまり言わない。

オレもそれなりに自分のことで必死に生きているつもりだし、精神論や気休めだけでうまく

行くほど甘くないという現実も分かっているということから、他人に対しても着やすく「頑張れ」とか

いう余裕はない。

また、他人に対してそこまで言えるほど、オレは偉い人間でもないから言わない。

効率の善し悪しに関係なく、他人に対して頑張れという奴は頑張っていないヤツの場合が多い。


もうひとつの嫌いな言葉

「やれば出来る」


これ、一見評価してるように聞こえるけど、‘やれば’っていう言い方は基本的には

「ふつうのままじゃオマエにはムリ」というニュアンスがあるとオレは捉える。

ただ、ちょっと普通の人よりもムリをすれば出来る可能性はあるという、もともとは否定なのだ。


「やれば出来る」といわれて喜ぶ人もいるかもしれないが、オレは逆に怒る。

こんな言葉は励ましではない。上から目線による最大の侮辱だ。


世間一般に溢れる、このハッパのかけ方と、ジブリの鈴木Pのハッパのかけ方の違いが

おわかりだろうか。


鈴木Pの「頑張る必要はない。才能を見せてくれればいい」

というのは「才能を見せてくれれば」というように、まず、相手がちゃんとそこに力を秘めている

というようなニュアンスをかんじさせるのだ。

それを呼び起こしてくれるだけでいいと。


つまり、認めた上で、それをちゃんと発揮しろということ。

褒めた上で、しっかりとプレッシャ―と責任感も与える。


だが「やれば出来る」というほうには、基盤には「否定」や「力量不足」があるが、頑張れば

出来るかもしれないというようにオレには聞こえる。


「褒めた上でしっかりやれよ」というハッパのかけ方と

「否定はするが、それを覆す努力を期待してるよ」というハッパのかけ方だと

どちらのほうがモチベーションが上がり、この人の期待に応えようと思うだろうか。


価値観は人によって違うだろうがオレは前者。


実際にその人に秘めた能力があるかないかは置いておいてもいい。

モチベーションのあげ方が上手いのは、何かと「頑張れ」という人よりも鈴木Pではないかと

思う。


もちろん、否定されたことでやる気に火が付く人も存在するだろうが、そこは半々である。

ただ、最もタチが悪いとされる人達というのは、誰に対しても厳しく言ったほうが言われたほうも

何クソと思ってやる気が出るのではないかと決めつけている人達。


人を使うのが上手い人は、誰に対しても「あえて厳しく」言うのではなく、相手のタイプを

見極めて、その人の潜在能力を引き出す言い方をする人だなと思うのだ。

鈴木Pはそうやって、自分より下の人にはもちろん、場合によっては監督にもそうやってきて

いろんな引き出しをあけてきて、多くの面白い人材や材料をハッケンしてきたんじゃないかなと

感じた。


蛇足だがオレは「やれば出来る」というセリフは大嫌いだけど、

「これはオマエにしかできない」は大好きである。

よって、周りの人はどんどん言って欲しい(爆)


ちょっとした失敗した時も「だからオマエは……」って言われると腹立つが

「らしくない」って言われると、その評価が嬉しくてシッカリ反省する。

オレは人間が出来ていないから、ミスった時に「オマエのためを思って!」と叱られても

殺意しか芽生えない(笑)

でも「そんなミスするなんてオマエらしくない」と言われたら、腰を90度まで曲げてでも

アタマさげてお詫びくらいはする。


何を甘ったれたことを言ってるんだって?

何言ってるんですか? いつ、オレは自分が聖者だとか強い人間だとかいいました?

皆さんが今読んでいるコラムはダメ人間が執筆しているダメダメコラムなんですよ。

それを踏まえてちゃんと読んでください。

そーゆーわけで、ダメ人間がお送りする「才能をだしてくれればいい」のテーマ、

もう少し続きます(笑)


以上のことを踏まえると、オレもこれから友人や後輩を応援したり励ますことがあっても

「頑張れ」っていう上から目線の言葉と、先に否定することから入る励まし方はなるべく

やめようと思う。自分がされていやなことを他人にはしたくない。


例え、多少嘘の要素があっても、まず相手の潜在能力を認めるような切り口で入って

それを引き出してくれというような言い方をすれば相手も悪い気はせず、期待に応えようと

いう気持ちになる可能性は高いと思う。


厳しく言ったり正直に言うというのも大事なのは分かるが、熱血派で勘違い一直線の人に

限って、誰に対しても、この方法で行っちゃう人っていまだに多いのよね。コマッタもんだ。