愛 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

うーん……オリンピック東京開催決定については色々書いてやりたいことがあるのだが

なんとなくギザ物議カモスような気がするから、ここでは書くのやめておこう。

たぶん時期的に今書いたら、有名神社の鳥居に貼られた千社札の如く、あちこちの方面から

「非国民レッテル」をアタマのてっぺんから足の裏までペタペタと貼られそうな気がしてなりま

せぬよ。

巨人脇屋の選手Tシャツ着て、甲子園ライトスタンドの真ん中に1人で座るのと同じくらいの

キケンを感じる。

ま、このブログの読者さんなら、もうオレが大体どういうこと書きたいかというのは安易に

御想像できることでしょうから(笑) 今回は書くのやめよーっと。


かといって、代わりに何か書くことあるかと考えてみた。

例によりモノゴトの批判はよくするが話題や多数派や理想論には便乗しないこのブログ。


おもいきり物議カモスのは避けたいが、差しさわりの無いテーマは面白くないので

プチプチ物議カモしそうなテーマでもやってみよう。

最近なんとなく考えてみて、気になったことと、気付いたことを。



いきなりなのだが『愛』というものについて。


恋愛、家族愛、動物愛、同性愛……

いろんな「愛」を私生活でもテレビでも小説でも映画でもあちこちで聞く。

でも、これほどあちこちで聞くのに、実体がなく明確な定義もなく、どこからどこまでが

愛の範囲なのかハッキリしないものもない。


「優しさ」とか「思いやり」とどう違うのか?人間関係においてどのラインを越えたら

それは優しさや思いやりではなくて「愛」になるのか。

おそらく……というか絶対にこの場で正解は出ない(笑)。

だけど哲学好きだから語ってしまう。


例によって、先に一言断りを。

『極論エンタ-テイメントショー』ですから(-_-)


愛の定義について、なんとなくナットクいく定義をまず2つ。


ひとつはちょっと前に読んだ中村うさぎの本に書いてあった。

「愛とは『共感』から始まるものである」

愚者の道 (角川文庫)/中村 うさぎ
¥460
Amazon.co.jp

これはすごく良くわかった。

「優しさ」とか「心配」とかいう言葉が一切入っていない所がリアルだ。



そして、もうひとつ。

情報元は忘れたが、これも何かの本での誰かの意見だと思った。

「愛とは、自らの人生なり、資産なり、身体なり何か半分を相手に差し出してもいい覚悟のこと」


これもリアルに感じた。ちょうど「優しさ」と「愛」のボーダーを指し示す位置を教えてくれているような。


オレの中では「愛」というモノは相手に対しての思いやりや優しさ、あるいは相手の人生や

将来のためを思って時には厳しいムチ(忠告や叱咤)になるものかと思っていたが、

実はそれは間違っているような気がしてきた。


よくドラマとかで狂った愛とか歪んだ愛とかいう言葉があるが、あれはまんざら間違ってはいない。

「愛」という言葉と響きで、我々はスバラシイ言葉だと思い込んでいるが、歪んでいても愛である

ものはあるし、狂気じみていても「愛」であるものは存在するという事実。


中村うさぎの「共感から始まるもの」というところから語ろう。

善し悪しは別として、さっきも書いた通り、これはなんとなくわかる。


例えばビンラディンと、神風のように飛行機にビルに突っ込んで自爆したテロリストの間には

「愛」があったと思う。

厳密に言えば、ラディンのほうは、自分に忠誠を誓った若いモノを利用しただけの一方的な

ものかもしれないが、すくなくとも、「特攻して自爆したテロリスト」はビンラディンに愛を持っていた

はず。


間違った思想だとしても、まず世の中の状況やアメリカに対する考え方でラディンに「共感」した

こと。

そして、それは自分の命をささげるまでにいたった。


行動としては間違った判断かもしれない。いや、間違っている。

でも……ここまで行けば、これはもう特攻したテロリストはラディンに「愛」を捧げていたはず。


もし、ラディンの考えに共感しても、自分の人生を犠牲にささげることまでいかず、

断ったり、ただ金銭や労働で援助しただけなら、それは「優しさ」「共感だけ」止まりだと思える。



ラディンの例だと、ちょっと遠い国の話にようになってしまうから、身近な話にしよう。


友人づきあいでも仕事でも、「愛のムチ」という言葉をよく聞く。

コレに関しても疑問が湧く。


それは大事な人に対する「心配」ではあるかもしれないが、果たして「愛」なのか?


何故かと言うと、そこには「共感」が感じられない。

そして、言ってる側のほうに、この人のためになるなら何か半分が犠牲になってもいいと

いう姿勢が感じられない。


極論。

例えばひとつの集団の中で、自分と同じくらいの爆発寸前のストレスを抱えている人間を

みつけたとする。

その人間が、もう限界で「オレ、繁華街で刃モノもって暴れたいけど、1人じゃこわい」

と言ったとする。

それを聞いたもうひとりの人間も、実は暴れたいと考えてたとする。


その時……


オレ的には

「じゃあ、オレも一緒に暴れさせてくれ」

というのが『愛』ではないかと…。


まず、そこには「共感」がある。

その人の気持ちを分かるから、何か協力してあげたいという気持ち。

そして「自分の半分(以上、もしくは全部)を捧げるという覚悟」も存在する。


殺人を犯したら絶対つかまる。死刑か無期。短くても数十年。

場合によっては、その場で射殺というケースも。 ま、日本じゃあまりないが。


要するに「幸せな結末」は絶対ないのだ。残りの人生「獄中」か「死」かである。

それでも共感することのできる愛する人(同性異性問わず)の力になれるなら、喜ぶ顏が

見れるなら、私の人生捧げますと。


これは「愛」だ……。



では、逆に「ひきとめるパターン」。


体裁としては相手のためを思って、または将来や人生を心配して、ヘタな行動に走らせない

ようにするというケース。これは「愛」だろうか。いや、オレは何か違う気がしてきた。

ある意味、優しさではあるかもしれない。

でも、そこに「共感」が存在しないのだ。


と、いうか、この場合は大事な相手の人生を心配する優しさもあることも事実だが、その反面

隠れたエゴもあることに気付く。

それは

「オマエの人生や将来をこんなに心配してあげている自分の意見を受け入れてほしい」という

考え。これは「優しさ」でもあると同時に、「優しさ」が変形した一種のエゴではないだろうか。


※くどいようですが、念のためにそろそろもう一回言っておきます。「極論ショー」ですよ。


言い方によっては「こんなにオマエのことを心配して『やめろ』と言っているのに、なんでオレの

いうことを聞いてくれないんだ」という自分勝手な要望ともとれる。


たしかにこの人間に言う事を聞けば、さらなる不幸な人生は避けれる。

だが、その発言に『愛』はない。そこにあるのは『エゴ』ではないだろうか。

オマエを心配してあげている自分の言う事を聞いてほしいというエゴ。

要するに相手に対する愛ではなく、自己愛である。

さらに言えば、意見はするが何か犠牲にしてでも救おうというのが見えない。

ノーリスクである。


また、ここで一言言っておこう。

オレ、すごく極端なこと言ってるかもっていう自覚はあるよ。

でもね……良い悪いとか正しいか間違っているかではなくて、ちょっと冷静に考えてみて

もらえば分かるけど、まんざら全く間違ったこと言ってるとは思わないんだよ。


共感する人間が暴走しようとしてる時に自分の人生台無しにしてでも何か協力したいと

思っている人間は「愛」を持っている。

それは歪んだり屈折してるかもしれない。それでも「愛」は「愛」だ。


何も犠牲にするつもりもなく、ただ単に心配したり、相手の将来のために厳しくしている人と

いうのは「優しさ」は持っている。だが、それは所詮「優しさ止まり」で「愛」までは到達しない。

そして「優しさ」も持っているが、同時にそれに匹敵する「エゴ」も持っている。



さて、ここでドラクエで言うところの呪文封じの呪文、マホトーンを一度唱えさせてもらおう。

これまでのような例をあげると、だいたいこういう質問が来ることが想定される。

誰がどんな提唱しても、その攻め方されたら、黙るしかなくなってしまうという投げかけを先に

封じさせて頂く。もちろんちゃんと理由も説明するけど。


「もし、アナタの家族や親友や恋人が、テロを起こすといってもアナタは止めずに煽るんですか?」

「アナタが、暴走しそうになった時に誰も止めてくれなくてもいいんですか?」


という質問。


先に答えてしまおう。

「身内がしそうになったらオレは止める」、オレがしそうになったら「止めてほしい」


ここまで書いておいて、何故オレがこう答えたか? 分かってますよね?


‘ここまでの記事’で、オレが問いかけたいのは、

「もし自分がその立場だったらどうする?」とか「それが良い事か悪いことか?」ではない。

その時点で論点が違う。


自分の立場だとか善悪とかでなく、単純に、共感して自分の何か半分を捧げる事が出来る

までいけば、「愛」ではないかということ。ただそれだけ。


うーん、そう考えるとオレは共感する人はそれなりにいるけど、自分の人生の半分ささげたり

自分の資産を半分差し出したり、その人が何処か体の一部を破損して、オレのを移植して

欲しいとか言っても、オレにはそこまで出来ないな。

結果、オレはある程度の「優しさ」は持っているかもしれないけど、「愛」は持っていないかも。



さて、最後にここであえて、さっき書いたアナタならどうする?の

「究極の三択」を皆さんに投げかけたいと思います。


仮に、ホントに仮にですよ。

アナタにとって大事な人……

親友か恋人にしましょう。家族だとそれなりに覚悟する人もいるでしょうから。

その人がテロに参加すると言っています。

その人は自らの志願で決してムリヤリやらされるということではありません。

出来れば一緒に行動してくれる人を探しています。

そのテロは自爆テロで参加したら生きて帰れません。

そして大勢の無実の人が死にます。


さて、アナタが選択出来る行動は以下の3つ。



①愛する親友・恋人と行動を共にする。そして殺人犯となり2人で死ぬ。


②親友・恋人をテロに参加させずに救う事が出来る。

 ただし、条件としてアナタは片手片足片目片耳を病院に寄付しなければいけない。

 それは一生取り戻せない。親友・恋人は何も失わないし犯罪者にもならない。


③何もしない。アナタ本人は何も失わないで済むが大事な人は確実に死ぬ。



もう、極限状態で、選択肢は上の3つしかないと考えてください。

自分も何も失わずに、大事な人も説得してテロにいかせないという選択肢はアリマセン。



ちなみにワタクシだったら……

人間として正直な気持ちをいいましょう。


おそらく③。 もしホントに入れ込んでる同志の相手だとしても①です。


「真実の愛」を持つ方は何の迷いもなく①か②を選ぶでしょう。