執筆活動のほう、2作目をなんとか原稿用紙換算82枚目まで書きあげた。
1作目に比べると多少ペースダウンしているものの、最後に推敲する時間含めても、
〆切りまではかなりの余裕がある。
だから毎晩毎晩(正確には週5回くらいだが)このブログにてアホ満載のコラムも
アップすることが出来ている。
コラム書く前後で、絶望の底なし沼のような日本の闇……いや病みを照らす純文学2作目
をも書きながら(笑)
時間の経過が早く感じて、どうせ撃沈されているだろうが、最初に送り出した処女作が
予選通過したかどうかの発表が、もう10月だな。
何卒頼みますよ。文芸春秋サン(あ、言っちゃった)。
とりあえず今執筆中の作品は応募締め切り日より、かなり早く仕上がるので、
じっくり時間いっぱいかけて推敲して、ぎりぎりになってからまた送るか、
それとも応募〆切り日が更に早い別の出版社主催の賞に、今回はまず送って、
そのあと早急に2ケ月くらいで3作目を書きあげ、それはそれで当初の出版社主催
後期募集ぶんに送って、2社応募とするかを現在検討中である。 さて、どうしようか?
さてと、まあそんな近況報告をふまえての記事である。
先日、このブログでもたまに書くバイト時代の1コ上の先輩と電話で話して
近況報告をし合った。チラッと書いたがオレのほうは執筆を継続しているとお伝えした。
その先輩のほうは幼稚園の先生をしているのだが、子供と一緒に遊ぶ研究として
色んな玩具を改めて知るようにしてるとのことだ。組織命令でなく自発的に。
それにより目を付けたのがルービックキューブ。
小さいころによくやったアレ。その先輩も当然小さいころに遊んでいたが
大人になって改めてルーツや遊び方のレパートリーを詳しく調べて、奥が深いことを
知ったとのこと。
今はルービックキューブを教材にして、子供と触れ合い、幼稚園ではちょっとした
「六面揃えスピードスター」らしい。子供に教えるためにやっているうちに、やはり自然に
テクニックが備わってきたようだ。
先輩からはそういう近況報告を貰った。
オレのほうは文学でプチ爆発でもいいから、何か世に送り出したいと言い、
先輩のほうは、キューブのチャンピオンみたいなポジションになれればいいと話し合った。
(上には上がいるようでキューブのチャンピオンは海外の子供ですごい早く揃えるとか)
共通しているのはオレも先輩も、別にそれを本職でやっていくとか、食っていくとか
長者になるとか、有名人になるという目論見ではない。
それは、好きなことで生きて行ければこしたことはないが、そんなに簡単じゃないことは
互いに分かっている。 間違ってなれたなら、それはそれでいい。
先輩のキューブで言えば「テクニック」
オレの執筆で言えば「文学」
という、いわゆる「作品」をこの世に残したいのだ。
それだけである。儲けや権威が目的ではない。
最近、というかオトナになってから感じることがある。
今、このように「利益」とか「出世」とかを目的としない『結果』を求めている人って
あまりいないのではないかと。
カネでも地位でもなく、ただ、何か自分が生み出したモノをこの世に残しておきたいという
欲望。
やれ草食系だ、やれサトリ世代だ、やれ最近の若者は車も欲しがらないだの言うが
そういう人は、「何か自分が作りだしたモノを残したいという欲」を持っているのだろうか。
先に言っておくと、会社の中のプロジェクトで何か作るとか、有名商品をプロデュースする
とかではない。
それはハッキリいって仕事内での括りだ。それも大変なことで出来る人間は才能あるとは
思うが、そういうふうに仕事だからやらざるをえない、やることになったという範囲のモノではなく
分かりやすく言えば、プライベートで自発的にやることで、なおかつ金銭目的ではないことだ。
ここ数年、そういう人をまわりであまり見ていないような気がする。
オレは昔から、そういう何か「オレ発」のモノを世の中にひとつでも充分なんで残して
死んでゆきたいという妄想というか願望があった。
皆さんはありませんか?
オレのそういう願望の欠片が、まずハガキ職人という身近なところから入って、
最近もっと世界を広げたいと思い、小説を書くことにしたと言うのがある。
実際かなわなくてもいい。でも、とりあえず可能性を生む行動だけはしておきたいのだ。
したくてウズウズしている。オレの思想をこの世界に残したくて。
子孫よりも財産よりも思想、それを残したい。
だから物語を紡いでおく。どうせダメだと分かっていながら。
たとえばとにかく稼いで資産はたくさん残ったとしよう。
でも、その紙の束には物品交換価値はあると思うけど、そこに魂はない。
いくら稼いで死ぬ時に残しても、遺族の生活が助かるだけで、世界観は一切存在しない。
子孫はある意味、親の作品だという声もある。
それはそれで正しいかもしれない。
でも、よくいうだろう。子孫を残すのは人間の義務だと。
義務ならば、それは仕事と同じ。
するべきことだからしたことであって、自発的とは言えないのではないだろうか。
義務を果たしただけで、世間の一部にでも興味をもたれる作品を生み出したわけではない。
そういう「義務」とか「利益」の臭いがする作品でなく、単純にその人の世界観や思想を
表す作品を残そうという欲がある人が少ない気がするのだ。
たとえば、別にそんな手間や能力を必要とすることでなくてもいい。
世間に向けた作品なんて小さいモノから大きいモノまである。
芥川賞とかでなくても、サラリーマン川柳とかだっていい。
もう少し大きい世界で例を出すなら、プロ野球のチーム名募集。
ゴールデンイーグルスや、ブルーウェーブだって一般の人が考えた立派な作品だ。
ほとんどの日本人が知ってる名前だからな。
逆にすごく小さい世界で言えば、既存の言葉に当て字をハメて、それを日本の常識とかまで
引きあげるというのでもいい。
たとえば「浪漫」という漢字。言うまでもなく外国語のロマンの当て字だが、この「浪漫」という
当て字を生み出したのはどっかの日本語学者でも大昔の人でもない。
夏目漱石である。
行ってしまえば、既存の言葉をもとに、たった「2文字」を上手く当てただけで、これだけ
メジャーな漢字になってしまったのだ。ここまで国民に浸透すれば、もう立派なひとつの
作品である。
こんな程度でもいいのだ。
2文字の当て字から、原稿用紙500枚以上まで、パターンはいくらでもある。
問題は中身と発想力。
でも、昔からオレの周りであんまり、こういうのをどんどんやって、何かしら世の中に自分の
考案したモノ(物質でなくても)を残したいっていう意気込みをもったヤツが、あまりいない。
それこそ、前にも書いたが
「それ、やって収入になるの」とか「時間のムダ」「もっと有意義なことやれよ」
とかいう実益主義な意見ばかり。
なんか寂しいね。思想的な仲間が少なくて。
いるにはいるんだけど少ない。
そりゃあ、おカネも大事なのはわかるよ。
けどさ、もっと自分だけの何かをアピールしたいとかいうのはないかな。
世の中に作品として残したいとか。
実際残せなくてもいいんだよ。
すごい忙しいから、そういう時間が無い人もいるのは分かるから
行ってしまえば行動に移さなくてもいいんだ。
でも……実際やるやらないは置いておいても、はなからそういう欲がない人が多すぎる
気がする。思うだけでも充分だと思う。
繰り返し言うが、オレは何かひとつ作品を残したくてしょうがない。
はっきりいってかなわず終わるだろうとは分かっているが、それでもとりあえず
「可能性」はアチコチに蒔いておきたい。
蒔かないと絶対芽生えないが、蒔けば100000分の1の確率だろうが芽生えるかもしれない。
さきほどの先輩とも放したのだが、例えばオレの場合、オレが死んだあとに、その作品が
世に出る可能性だってある。
不謹慎な例かもしれないが、今の時代は明日何があるかわからない。
もしかしたら、明日朝家を出た瞬間に変質者に殺されるかもしれないのだ。
また、極端に言えば、数日後に戦争がおこり空襲で死ぬかもしれない。
もしオレが変質者に殺されたら、報道陣は生前のオレのしてきたことや、人柄、趣味を
探るかもしれない。このブログも見つけて映像に流すかもしれない。
その流れで、実は小説を書いてて新人賞に応募してたとかいうことも嗅ぎつけ、
出版社にいって、(廃棄してなければ)落選原稿を見つけて、こんな作品を書いていた
とか流すかもしれない。そしたら、それをみた別の出版社の人が気に行って目をつけて
書籍化してくれる可能性も完全にないとは言い切れない。
(オレの作品が良いか悪いかはこの際おいておいてw)
アーティストで感電死した山田かまちなんか、たしか亡くなってから作品が注目されて
世に出たと思った。
とにかく、実力あるとかないとか、自信あるとかないとかカンケ―なく、生きてるうちに
何か考えて、何か作って、何か書いておけば、忘れたころや死んだあとに、それがひっそり
と芽を出す可能性が0.00001パーセントくらいはあるんだよ。
どんなに才能もってたって、何も作っておかなきゃ、その人の思想や存在記録価値が残る
可能性はゼロなんだよ。
だから、オレは今のうちに、発想力がまだ残っているうちに、このブログ内にオレ独特の思想を
ばら撒いておいたり、各出版社に素人が書いた文学小説をばら撒いておいたり、はたまた
周りの友人の耳の穴から脳ミソへと、オレの屁理屈的世界観をばら撒いておくのだ。
そう、いつかどこかで芽生えるかもしれないから。
明日死ぬかもしれないから。
だから、ばら撒けるうちにオレの思想と世界観を絶やさないように増殖繁栄させるため
思想がつまった「胞子」をこの世界に放ち、どこか一か所でもその芽が芽生えればいいなと
願う今日この頃である。
ただ、ヒネクレモノとして一言だけ言っておこう。
オレは厭世ブロガ-(笑)。
これは熱意と言えば熱意で、意気込みと言えば意気込みかもしれないが
決して優等生的な考えではない。
はっきり言ってしまうと、この先オレが執筆で挫折しても、このブログを辞めることになった
としても、決してポジティブ論者の言いたい放題にはさせたくないのだ。
別にオレがネガティブ肯定派の代表だとは思ってないけどね。
もし、オレはこの場を最後にもうあらゆる文章表現や意思表示をする機会を失ったとしても
「努力」「根性」「勇気」とかいう言葉を連呼する輩がのさばらないように、今のうちにオレの
ネガティブ哲学を放っておこうということだ。
例えるなら、ドラゴンボールで孫悟空に体を突きぬかれた初代ピッコロ大魔王の
最後の時のような感じか。
体に風穴をあけられたあと、自分はもう死ぬと認めるが、それでも改心するとかでなく
自分が死んだ後も人間どもの好きにさせずに絶滅させたいから、息絶える前に
口からマジュニアのタマゴを吐いて、人間絶滅を託したのと同じ。
オレにとって紡ぎ出した「絶望文学」という作品は
ドラゴンボールで言うトコロのマジュニアと同じである。
はあ、オレもそうとうヤバいな(爆)
「イタイやつ」と思われてるかも。
いや、「イタみ」を恐れてちゃ、何も生み出せやしないさ。
うーん、かなりアツくなってしまった。
人によっては、またかなり偏った意見書いてると思うだろうな。
ま、今回の記事は反応とかはあまり気にせず
一回書いておきたかった記事なんで、読んだ内容はもう忘れてください(笑)