落陽 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

今年のはじめ、ピース又吉が
ここ数百年、初日の出はありがたいというような風潮が日本にあるが
自分はどちらかというと夕陽に励まされて生きてきた。
とつぶやいていて、それを聞いてハッとした。自分もそうじゃんと。

なのにオレもいつの間にか自然に初日の出や朝日がありがたいというような
概念にとらわれてきてしまっていたことを急に恥じる。

考えてみれば今までの人生の中で、鮮明な自覚はなくとも、潜在意識の中では
絶えず朝日というか太陽を憎んできたような気がする。
朝日さえ昇らなければ、また、くだらない一日が始まらずに済むのにと。

そういや太宰治も「女生徒」の中で『朝は厭世』と書いていたし、
梶井基次郎も「冬の蠅」(だったかな?)の中で、『太陽を憎む事ばかり考えていた』
『結局は私を生かさないであろう太陽』と書いていたっけ。

この2つの作品のこの文章は読んだときにとても共感したもんだ。
小中学校のころ、よく歌わされた「素晴らしい朝が来た、希望の朝が」っていうアノ歌。
曲名忘れたけど、あの歌にはヤケに嫌悪感を覚えた。
同時に作詞した人間の胡散臭さと、センスの悪さを感じることしかり。洗脳のような歌だと。

朝は憂鬱だった。かろうじてある程度‘だった’と過去形になるが。いや、過去進行形か。

職場の朝礼とか部活の朝練で声が小さかったり元気ないと「朝から元気ないぞ」とかいう
人間がいる。マジョリティという括りの中に。自分の物差しでしか世界観を計れない人達、
世の中多数の声が正解だと信じて、疑うという行動をだらけてる人達。

「朝なのに」声が小さいんじゃなくて、「朝だから」声が小さいんじゃ阿呆垂。
夕方か夜からだったらスタートダッシュでバテてるヤツとか、朝にハッタリや媚びの威勢を
張ってたヤツより元気になってやる。でも人々はどうしても朝の元気にこだわる。
「スロースターター」とか「巻き返し型」という言葉を誰か教えてあげて欲しい。

こういう例をふまえて考えてみると、体育会系や物質主義者には「朝日&朝崇拝型」が多く、
文学系文化系は「夕陽&夕方崇拝型」が多いんだなあ。
又吉も太宰も梶井も「夕陽型」だし。
上の3人に並べるのは存在的にも実力的にも畏れおおいんで、あくまで同種という括りで
いえばオレも「夕陽型」だし。

高校生時代、部活が終わって帰る黄昏時、多摩市と府中市を結ぶ関戸橋という橋から見える
夕陽はとても美しかった。

朝日の白さは無機質で蛍光灯の光のようで、それは品も風情もなく下品だった。
ギラギラとしたその輝きは明るさの押し売りのようで、まるで、人間に対し、
「さあ!また1日が始まったんだから張り切って働け!学べ!」といってるようで
ある種の権力臭さを感じた。

それに比べると多摩川の遥か向こう側の水平線に沈みゆこうとする大きな夕陽のオレンジは、
それはそれはもう、地面の落ちる寸前の最期のダマになる線香花火の火球のようで、
その寂しさと謙虚さと地味さが感慨深く、見ていると癒されたもんだった。
朝日のような押しつけがましさがない。朝日はいわば松岡修造のようなもんだ。

朝ほどの輝きの強さも失って、穏やかに疲れたように優しく光って沈みゆく夕陽をみると
授業と部活で疲れて同じく1日を終えた自分の姿をそこに投影して励まされたりした。

「落陽の時間」は憂鬱のモラトリアムだ。
憂鬱な朝日が幅を利かす時間が終わって、落陽の時間がやってくる。
しかし、完全に陽が落ちて、数時間すると忌々しい朝日がまた昇る。

それを考えると「落陽」が与えてくれる気力回復のチカラは大きい。

そんな夕陽が綺麗だった日の夜とかは吉田拓郎の「落陽」が聞きたくなりCDをかける。

旅先で、オンナや酒より博打が好きで、スッカラカンになりそうな(なった?)爺さんと
知り合った歌。
この爺さんと別れた時が「落陽」だったというシチュエーションと、また、今の日本は
ウソツキばっかで、この爺さんのような正直者がいない日本は、もう「落陽」みたいな
状態だということを歌っているのだと思う。

吉田拓郎は「あんたこそが正直者さ」と歌っている。
この爺さんは、歌詞にもある通りホントにサイコロ(博打)が好きなのだ。
だから先のことを考えず、テッテー的にその道に走る。

博打だから多少カネもからんでいるが、でも爺さんが好きとするメインは儲けよりその、
スリルとか遊びの特性だと思う。

全てスッって明日喰ってゆくカネがなくなるかもしれないけど、そんなコトは気にしない。
ただサイコロが好きだからヤル!
男だから女に興味もつのは当然、やりたいことやりたいのは健全!という声が跋扈する世の
中でも、「オレはサイコロのほうが好き」というテッテーぶり。

生活がどうのとか、男としてどうのとか、カンケーないのだ。純粋に好きだからヤル!
吉田拓郎が「あんたこそが正直者さ」と歌った、「正直者」という意味が理解できる。

そんな博打好きのどうしようもない爺さんだが、出会った主人公がフェリーで帰る時は
しっかり見送りにきてくれて、義理と人情はしっかりとしてる。

右を見ても左をみても精神論や保身イメージアップばっか言ってる嘘つきが多いこの日本で
この爺さんのように計画性がなくても正直な言葉と行動を表す人間が出てきて欲しいという
ことを吉田拓郎は歌いたかったのではないだろうか。

爺さんに対し「男の話を聞かせてよ」と歌っている箇所は
別に成功話とか女性遍歴とかでなく、純粋にサイコロの話を聞きたいと言ってるのだろう。
日本において他では「男の話」と言ったら出世論か喧嘩武勇伝か恋愛話しか聞けないだろうから
そういうのではなく、爺さんからしか聞けないレアな真の「男の話を」と。

「この国ときたら、賭けるものなどないさ」
というのは、爺さんのような正直者がいない日本を嘆いての歌詞だろう。

一部の政治家が勝手に海外で何かやったら、「売国奴」とかいうマスコミとかいるが
今の「日本」には売国奴などいない。
なぜなら今の日本は他国に売り飛ばすものなど持ち合わせていないと野坂昭如が言っていた。
ないモノは売れない。だから売国奴もいない。
隣国も同じく。隣国も日本が求めているような大そうなモノなど何も持っていない。

下層を完全無視した無責任アベノミクスなどが信頼され、
大量殺傷の凶悪犯が出現すれば、原因となる根本を追求しようとせず、本人がキ○ガイだとか
弱いヤツだというだけで片付けようとし、最近ではどっかの市だったか団体が生活保護受給者を
差別し、監視するような条例を作ったとニュースで見た。愚の骨頂である。
それよりも取り締まるべきはそういう人を放り出した企業だろうが。
天下りもいじめも搾取もなくならない。
持ってる危機感といえば「稼げるか」だけ。弱者の命など資本主義の肥やし程度の認識。
国への生贄。

このままだとこの国自体の落陽と滅亡は、おそらくそう遠くはない。オレは怒っている。