ライバルは外にしかいない。 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

先日、たしか寺山修司の本だったと思ったが読み直した時に

ずっと前からオレが思ってたコトと共感するワードがあったんでちょっと記す

ことにする。


基本、野球と1部ボクシング以外のスポーツは興味ないんでその辺のニュースは

観ないのだが、それでもたまにテレビをつけてるとインタビューの類の映像や音声が

耳に入ってくることは多い。


そのインタビューとかでよく耳にするのが試合前のインタビュアーの

「一番のライバルは誰ですか?」という問いかけに対する選手の

「自分自身です」 という答え。


・・・・・・


はぁ?・・・

この答えってずっと前から疑問を感じずにいられない。


ここで寺山氏の名言のニュアンスをお借りして言わせてもらうと


「アナタはただでさえ勝てる可能性が5分もしくはそれ以下の強敵と

これから戦うのに、さらにもう1人を相手にするっていうのですか??」


もし本心ならその発言をした人間はもうその時点で「負け」である。

どう考えても神かチェ・ホンマンでない限り勝ち目はない。


歌手とかがコンサート前に言うならまだわかる。

それは勝ち負けではなく忍耐や体力の問題だから。

でも勝負事は違う。


自分の中の弱さということが言いたいのなら

その弱さを家においてくるか封じ込めてからくるのが段取りだろう。


したがって「ライバルは自分」という発言する人ってのは段取りが悪いか

もしくは、自分はこんなにオトナな発言しますよ・・っていう好感度UPを

考えてる人間としか思えん。


人間とは何かを真剣にやってる時ほど対象となる相手やモノに対して

集中できるものである。その際は己のことなど考える余裕はない。

もっと言えばそういう大事な時こそ普段はキライな自分とも手を組まなければ

勝算はないだろう。


むしろ、一人きりでじっとしている時こそ、イヤでも己と向き合い

様々なことに対して自問自答と苦悩をせざるおえないのだ。


だから試合やゲームの緊張したリアルタイムの現場になって急に

自分自身と戦える人間てのは逆にいえば普段、どんなヌルイ生活を

しているのだろうと想像してしまう。


オレの価値観がひねくれてるからってのもあんだろうけど。


オレが選手やプレイヤーだったら、「自分自身がライバル」とかいうような

人間とは、まず競いたくない。


すでに「もう一人」の相手と戦って疲れたり悩んだりしてる人間と戦って勝っても

嬉しくない。


そして、目の前に「オレ」という相手がいるのに、その「オレ」を差し置いて

「自分自身」がライバルだなんて言われたら気分も悪い。

オマエと競い合うのはオレなんだよ!。

オレだけに集中しろ。


またその捉え方で言えばその人間が負けたとしても、言い分としては

「自分の中の弱さに負けた」ということになるんで、言い換えれば

「オマエに負けたわけじゃない」というふうにとれるわけだ。


本人はそのつもりでなくても、そうとられたら文句は言えないハズ。


もし今後、ゲームなりスポーツなり、もしくは文化系の勝負であっても

オレと競うことになる人は間違っても「自分自身がライバル」だなんて

言わないでください。


2対1のハンデの闘いをするつもりはないです。もし勝っても嬉しくないです。

また、目の前の相手に無礼をかます人とは競いたくないです。

世間に媚びて好感度UP狙う人とも競いたくないです。

オレと交差する場を利用してアナタのイメージUPの場にしないでください。



そして先に言っておきます。どんな状況になっても


俺自身の中には「ライバル」も「敵」もいないです。


「ライバル」はすべて外部に存在すると思ってますから。

それが自分自身への信頼であり、相手に対する礼儀だと考えてます。


もし自分の弱さとも闘わないとイカンと思ってても、それは口に出すこと

じゃないと思ってますから(-_-)。



最後に・・・


これはあくまでオレの哲学であり、決してこれが社会の正解だとかいうつもりは

ありませんのでご了承ください。批判コメはご遠慮ください。


嗚呼、発言とは難しいものだ・・・

昔の人が言った言葉が「かっこいい」モノとして定着してしまうと誰も疑問を持たず

そのままいってしまう・・・・


明日早いからもう寝ます。

おやすみなさい。