村上龍の「共生虫」 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

久々に村上DRAGONの作品を読んだ。

『共生虫』


共生虫 (講談社文庫)/村上 龍
¥560
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ここ数年の村上作品の流れといえば、

1996年 女子高生の援助交際をテーマにした「ラブ&ポップ」

1997年 無差別大量殺人をテーマにした「イン・ザ・ミソスープ」

2001年 家庭崩壊を描いた「最後の家族」 


などなど、いずれもその時代の社会問題をモチーフにしている。

上記は全て読んだがほぼ全作品、ラストはやるせない感じというか

ある意味、脱力してしまう。バッドエンドということでなくて。


だがそれが現実の状況を比較的リアルに再現してるんだろな・・。

そう、村上センセイは今の世の中の秩序の無さと暴走、そして崩壊に対し

かなり ‘おかんむり’ア宮殿の状態なのである。


作品はちょっと前だが今回読んだこの「共生虫」で取り上げられてる

社会問題は「引きこもり」「ネット社会」である。


主人公はひきこもりの青年ウエハラ。

彼は自らの体内に謎の虫を宿してると思い込み、ネットを通じ、

インターバイオと名乗るグループから、その虫が殺戮と種の絶滅を司る

「共生虫」であると教えられる。そして彼はそれを信じ生贄を求め殺戮にため

外の世界に飛び出して行く(裏表紙解説より)というストーリー。


※「ラブ&ポップ」にもオタクのウエハラというチョイ役が出てくるが、

  この主人公とは無関係でリンクしてないらしい。


ネット社会と情報操作が横行する現代そしてひきこもりをモチーフにした

風刺小説。インターネット文学と銘打っている。

だが、このストーリー、フィクションだと軽く思ってはいられない。

実際、身近にこういう人物がいてもオカシクはないのだ。


ココ最近よく流れるニュース、

工場に車でつっこんで作業中の人を数人はねた人間がいるとか

現実とネットの世界でバカにされ繁華街でオノやナイフを振り回したとか。


結論から言うと上記の行動は当然許されぬコトである。

全く無関係のたまたまその場所にいた罪のない人が命を奪われている。

家族のキモチを考えたら死刑で当然だろう。


だが!そういうニュースが流れるたびに報道番組を見ると良識者風情が

決まってこう言う。・・・「こういうコトをする人間のキモチがわからない」


・・・

俺はアナタたちインテリのキモチがわからない。


誤解のないように念を押して行っておくがさきに書いた行動を起こすモノは

許されるべきではない!・・・だがそういう行動を起こすモノがいるということは

おかしいことでもなんでもないのだ。


我々は神でもコンピュータでもなく生身の生物である。

世間一般では無難な言葉として、怒りや悔しさを「違う方向へもっていけ」とか

「仕事やスポーツに向けろ」というパターンが多いが、世の中には多数人間が

いる。すべての人間が心や脳ミソのなかに怒り・屈辱を「意欲」にうまく変える

変換装置を備えているとは限らんのだ。


役立つほうに持っていくことが出来る人間もいれば、爆発にむけどんどん

溜めてしまう人間だっている。 

そして誰もが爆発・暴走する可能性を秘めている。


教育者や評論家のコメントを聞くと、そういう人間は基本存在しないという

前提で話をして、もし、そういう人間が出てきたらそれは異常な例外のモノだ。

と言ってるように聞こえてならない。


すべての人間が屈辱に耐える強さを持っている

という考えのほうがはるかにキケンではないのか・・・。

俺の考えのほうが狂っているのか?


もし狂ってるのが評論家でなくオレのほうなら、オレのアタマん中にも

共生虫が住みついてんだろーな。


うーん・・・、もうちょい書きたいことあったんだけど、これ以上書くと

ヤバいテンションと方向になるかもしれんから、今日はこれまでにしましょ。


昔の比較的髪長めのころの村上龍はちょい大仁田チックでしたね(-.-)。