そういえば、陸軍記念日だったとは知らなかった。ペルーのスペイン解放戦争の最後の段階、アヤクチョの戦い記念日というのは当然知っていたが、そこに陸軍が結びつかなかった。
10月8日のアンガモスの海戦記念日が海軍記念日であることは知っていたのに、陸軍記念日と結びつかなかったのは、アヤクチョの戦いが決してペルー軍がスペイン王党派を破ったものではなく、ベネズエラ人に率いられた戦いだったから。
スペイン植民地だったラテンアメリカは、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)、ペルー、ヌエバ・グラナダ、リオ・デ・ラプラタなどの副王領に分割されて統治されていた。
スペイン支配から解放されたブエノスアイレスからホセ・デ・サンマルティンが1821年にペルーにやってきて、リマで独立宣言を行った。しかし、スペイン副王、ラ・セルナ率いる王党軍はワンカヨなど中央山地に逃れて反撃を決意し、最終的にクスコに拠点を置くことになる。ラ・セルナは本国で対ナポレオン戦争を戦った経験がある有能な軍人だった。
一方、サン・マルティンがペルーを去った後、ベネズエラから解放者、シモン・ボリバルがスペイン人打倒のため独立派を率いるためにやってきた。副王軍と独立派の戦いは一進一退を続け、副王軍がリマを占拠しなおしたことも二回あった。
しかし、1824年12月9日、ベネズエラ出身のアントニオ・スークレの指揮の下、独立派は副王軍を破り、副王ラ・セルナを捕獲した。
副王占拠下のクスコで何があったのか?
クスコ出身の歴史家ホセ・タマヨは、「クスコには時代遅れの植民地体制を終わらせようという革命勢力があったにもかかわらず、副王軍占領により、愛国派にあった勢い、精神・経済力がなすすべもなく消え去った」と述べている。
クスコ入城時、副王ラ・セルナは、凱旋門やバルコニーからの垂れ幕などで派手に迎えられ、アルミランテの家(提督の家=現インカ博物館)に最初入ったあと、聖なる谷のユカイの村に赴いて策を練った。しかしそのあともクスコの住民には副王軍の独裁が待っていた。
副王とともに印刷機がはじめてクスコにもたらされ、王党派の大義が印刷されていった。
ラ・セルナを国民軍、独立派のサン・マルティンやシモン・ボリーバルは外国軍と宣伝していき、1823年3月には先住民をスペイン領土のスペイン国民とみなす令が出された。
教会でも王党派を支持するように説教を行うよう命じた。また、造幣局がクスコに設置され、スペイン王フェルナンド7世の肖像の入った銀貨が鋳造されるだけでなく、剣や銃弾なども鋳造されていった。
長期戦の中、クスコの人々は疲弊していく。農産物に15%の税がかけられ、軍への賦課金を徴収され、地主は貢納を命じられ、商業にも税金がかけられていく。銃や剣を取り上げられただけでなく、衣服・織物・医薬品などまで徴集され、先住民・や混血の人々は王党派の兵卒にさせられた。
最終的にアヤクチョの戦いにクスコから向かった軍隊9300人のうち、500人がスペイン人、残りは先住民とメスティーソであった。人数的に戦術的に有利であったにもかかわらず、クスコからの副王軍が敗れたのは、兵卒が疲弊していたからだけではない。スペイン人の将軍、ヘロニモ・バルデスが語っているように、先住民・メスティーソの兵卒には副王のために戦う大義がなかったのだ。
1824年12月25日クスコ解放。
こうして、ペルーの解放はなされた、しかし、現在のボリビアであるアルト・ペルーに残る王党派打倒に向かう途中、クスコでスークレは食料・兵卒、武器などを徴集していった。
1825年クスコにようやく共和制時代が訪れたが、クスコの町はすでに疲弊しており、経済的地位が低下し、他都市の成長もあり、クスコの人口は3分の1まで減少していった。
解放時の人口が回復するのは1940年代のことであった。
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