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自分自身に問いかけることは、純粋な奉仕です。
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原文「自己に問いかけるのは、純粋な奉仕」


ここでの「自分自身に問いかける」とは、ケイティさんの「4つの質問」で「ザ・ワーク」を実践することでしょう。

「ザ・ワーク」は、私たちが自分自身の思いに対して問いかけ、自分自身で答えを出すものです。
他者を変える目的で行うものではありません。

本気で他人を変えたいと思うなら、アメとムチ作戦でおだてたり脅したりしてみるほうが、短期的には効果がありますよね?
(長い目でみて本当に「効果的」かについては、疑問ですけれど)

自分で自分に問いかけて、自分自身と向き合う。
それは、ケイティさんがしばしば語る「私の領域」から決して出ずにいることです。
そしてそれを、ケイティさんは「純粋な奉仕」と呼んでいるのだと思います。

混じり物、不純物のない「純粋」さ。
ケイティさんはそれを、私たちが私たち自身の領域から出ないこととして表現しているのでしょう。

自分自身の思いだけに焦点を当てる。決して自分の「領域」から出ない。
それが、純粋な奉仕になる…

表立って好ましい結果が目に見えるかどうかはさておき、「奉仕」とは有益な行動のことですよね。

奉仕しよう、何か他人や世の中の役に立つことをしようと考えるとき、私たちはつい自分自身のことを忘れてしまいます。

自分以外のものに対して何らかの行動を起こすことだけが、奉仕になり有益な行動になると考えてしまいがちです。

いえいえ、ちょっと待って。
役に立つ、有益なやり方はそれだけじゃないよ…

今日のケイティさんは、私たちに対してそんなふうに語りかけてくれているのかもしれません。

私たちが、自分自身の思いに向き合うことも、純粋で有益な奉仕なのです。

ひょっとしたら、それが最も有益な奉仕である場合も、少なくないかもしれません。


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私にとって、すべての思考は、愛する人のようなもの。
理解ある出合いを待ち望んでいる子供のようなものです。
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原文「私にとって、すべての思考は愛されしもの。すべての思考は、理解をもって出合ってもらうのを待ち望む子供のようなもの」


ケイティさんにとって、「愛」とは「理解」なのですね。
「愛」とは、すべての思いに対して、かわいい我が子に接するように「理解をもって出会う」こと。

では、「思いに対して理解をもって出会う」とはどのようなことなのでしょう?

ここで自分自身と思考との関係を例に、考えてみましょう。

そうかそうか。
なるほどそんなふうに考えていたんだね、自分。
…と、自分自身に対して共感しつつ、じっくり耳を傾ける。

誠意をもって他の人の話に耳を傾けるのと同様、これもとても大事なことだと思います。

他の人たちとの信頼ある人間関係を築くのと同じで、自分自身に対してそんなふうにじっくり接していってはじめて、自分の率直な本心がみえてくるものです。

自分自身が、自分に対して信頼をもつようになるのですね。

きっとこれが「汝自身を知れ」の、第一歩。

通常、自分に対しても他者に対しても、「理解をもって接する」とはここまでを指していると思います。

うんうん、そうなんだね…
と、批判などをせずにじっくり耳を傾ける。

誰かにこんなふうに接してもらえたら、それはどれほど私たちにとってありがたいことでしょうか。

それを自分で自分にすることができれば、まさに「自分自身を大切にする」ことになるでしょう。

そんなふうに「自分自身を大切にする」人々が増えれば、世界もずいぶん変わるかもしれませんよね。

さて。
しかしです。今日の今日までケイティさんをフォローしてきた我々としては、もう一歩踏み込んでみたい!!

ケイティさんがこれまで私たちに語ってきてくれたことを思い返してみましょう。
ケイティさんの「ザ・ワーク」を、思い出してみましょう。

「それは、本当なのでしょうか?」

私たち自身が、私たち自身に対して、心を開いて見せてくれた本心の思い。
その思いに、優しく「それは本当?」と尋ねてみてはどうでしょうか。

究極的には、この問いかけへの答えはすべて「いいえ」になります。

しかし今は、自分自身がどう答えても構いません。
いーや、本当だ。絶対に本当ですっ!!
という答えでも、全く問題ありません。

ただ、「それは本当かな?」と自分自身に聞いてみる。
私たち自身が本心から語る思いに対して、優しく問いかけるのです。
そしてただ、自分自身の正直な答えに耳を傾け受け止める。

それが、「理解をもって出会う」ことなのでは…。

そんなふうに思った、今日のケイティさんでした。


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変化として見えているものごとの内側には、連面と続いている調和があります。

私とは、その調和なのです。
…あなたがそうであるようにね。
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原文「外見上の変化の内部で進行している調和がある。私はあなたがそうであるように、その調和なのだ」


今日のお言葉の「調和」。
それは、移り変わってゆく物事の内側にある、とケイティさんは言います。

おそらくその「調和」そのものを、私たちが見ることはできません。
そのかわり「調和」は、私たちにとって「変化」として見えるのでしょう。

それはまた、説明することもできないのかもしれません。
おそらく具体的ではなく抽象的なもので、最大限に「調和」とか「美」といった曖昧な言葉でしか表せないのかもしれません。

そしてその「調和」とは私たち自身である…と、ケイティさんは今日のひとことを締めくくっています。

私たちは、自分の外側で起こる「変化」を見ていると思っています。
「変化」とは、それ自身の事情で、私たちにお構いなく進行していくものだと考えがちです。

しかし。
その「変化」の中に、私たち自身もしっかりと組み込まれているとしたら…

ひょっとしたら、この「組み込まれていること」そのものが「調和」の意味なのかもしれません。

私たちの目の前で展開する出来事の数々の中に、目撃者である私たち自身もまた、分かちがたく組み込まれている。

もしそのことを「調和」と呼ぶのなら、移ろいゆく出来事のすべて、私たちの目の前に展開している世界のすべては「調和」だということになります。

比類なく美しい光景であれ、おぞましいものであれ、それを目にしている以上そのすべてに目撃者である私たちが組み込まれている…

それが、「調和」ということになるのです。

そんなふうに思いながら、変化してゆく出来事の連続である世界を眺めると、まったく違った風景が見えてくることでしょう。