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あなたは「昨夜、夢をみた」という夢を、みているのかしら。
そして「昨夜(そのものを)」夢みているのかしら。
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原文「あなたは、昨夜夢をみたと、夢みているのだろうか。そして、昨夜を夢みているのだろうか。」


いったいどこからどこまでが、「夢」なのでしょうね?
どこまでいっても、「夢」なのかなぁ…
(゜_゜)ホケー

ケイティさんはよく、私たちが自分自身の思考を本当だと信じることを「夢をみる」と表現しています。

今日のお言葉は、実際に夜のベッドでぬくぬくとみる「夢」についてのものですが、このたとえの「夢」についても同じかもしれません。

私たちは、自分自身の思考を信じた…と、考える。
そして自分が何かを考えた…と、考える。

なぜこれが「夢」にたとえられるのでしょうか。

それは、私たちがこのようなプロセスにまったく無自覚だからかもしれません。

自分自身の考えを、ある意味「自動的」に本当だと信じていることに、多くの場合私たちは気づいていません。

さらに、自分が「思考する」と自分自身で考えている…などということに至っては、まるで自覚していないことでしょう。

ややこしいですが、
「『私は考える』…これもまた、私自身の思考だ」。
こんな図式などまるでピンときていない、ということです。

こうしてみると私たちは二重三重に、あるいはさらにそれ以上に、無自覚さを重ねているのかもしれません。

夢のなかでさらに夢をみて、さらにその夢もまた夢にみている…

それが、私たちの姿なのかもしれません。

もしもそうなら、これほど何重にも重なっている無自覚な夢から目をさますためには、かなりの回数、夢を解除する作業を繰り返すのが必要になるはずです。

その解除の作業の方法論には、いろいろなものがあるでしょう。
ケイティさんの「ザ・ワーク」もそのひとつです。

私は、この「ザ・ワーク」が、たった4つの質問と置き換えだけから成り立っているのが本当にありがたいと思っています。

もしもこれ以上に複雑な方法だったら…
あんなに何重にも重なった夢を扱うのは、どれほど大変な作業になってしまうことでしょう?

それでは、とても一度の人生でおしまいにできそうな気がしません。

でも「ザ・ワーク」だったら、日常、チマチマとひたすら繰り返せます。
さしもの鳥頭のコピペでも、これならなんとかなる。

ああ、よかった。
ケイティさん、ありがとう~。
(о´∀`о)