☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ゆるしとは、自由の別の呼び名にすぎません。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

原文「ゆるしとは、自由の別の名」


今日のお言葉によれば、「自由」と「ゆるし」は同じものということですね。

今までのケイティさんのお言葉の数々を思い起こすと、自由、平和、愛、ゆるし…こうしたものはみな同じものの違う呼び名だったのかもしれないと思えてきます。

「ゆるし」とは具体的にどのようなものなのかと問われると、案外答えに詰まってしまいますよね。

それもそのはずです。

私たちは基本的?に「苦しい」と薄々ながらでも感じながら生きているわけで…

とすると、そんな生きかたは自由ではない、平和ではないということですよね。
…つまり、私たちは基本的に「ゆるしていない」ということになってしまいます。

誰だって楽になりたいものです。
好きこのんでこんなに苦しいドツボにはまりっぱなしになろうなどとは思いません。

それでも苦しいのは、どうしたらその苦しみから逃れるのかが見えないからでしょう。

言葉を変えれば、
「ゆるしとは何なのか、どうしたらゆるせるのかがわからない」
からではないでしょうか。

ケイティさんは、その「どうしたら」の方法として「ザ・ワーク」を提示してくれました。

「その考えがなかったら、あなたはどうなりますか?」
「私は、これまで怖れていたことが私の身に起きるのを楽しみにする」

…このようにしてザ・ワークによって私たちの心が変化したときに感じる「何か」。

その「何か」が、様々な呼び名で呼ばれるものの正体ではないかと思います。

その経験のためには、他者という媒介が必要です。

当たり前のことですが、「ゆるせない相手」がいてはじめてゆるしのプロセスがスタートするのです。

しかし、「ゆるし」自体はきわめて「個人的」な体験です。

つまり、ゆるすこと自体に、他人の側の条件は一切必要ありません。

ゆるし自体は、ゆるす人当人の一方的な「決断」です。
相手がどのような状態、条件であれ、当人がゆるすかゆるさないかの二択しかありません。

「恩寵」という宗教用語があります。

これは、「神の人に対する一方的な愛」といわれます。

もしも「神」があるとして、その神が私たちを一方的に愛しているのなら…

私たちが「ゆるす」とき、私たちはこの神と同じことをしているのかもしれません。