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怒る人。
それは、怖れている人です。
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原文「怒る人は誰もが怖れている」


「怒り」の下には、何かが隠れているような気がしてたんだよねぇ…
(´-ω-`)

誰しも、うすうす感づいてますって(笑)

でもいったい「何」が隠れているのか、まさに怖い感じがして突き詰めて見る気にもなれません。

というわけで、気づいたら怒り散らしている日常のくりかえし。
(ノ-◇-)ノ~┻━┻

「怒りの下には何かが隠れている」。
この例としては、よく昭和のホームドラマなんかに出できていた、門限破りの子供が分かりやすいですね。

門限を過ぎた真夜中に帰宅して、玄関でいきなり仁王立ちのお父さんにぶん殴られる…
という、お約束のシーン(笑)

お父さんは怒髪天をつく怒りようなのですが、それが単純な「腹立ち」だけでないのは視聴者にも想像がつきます。

今日のお言葉に沿って考えると、このお父さんも本当のところは「怖れている」ということになりますね。

ではお父さんは何を怖れているのでしょうか。

…それは、お父さん自身が「それは本当ですか?」の問いを重ねて自分で発見することなのだと思います。 
(ホームドラマがそういう方向に展開するのって、どうなんだろう…という疑問はわきますが。)

ま、こういうコトは、他人がとやかく言っても始まらんもんなので(笑)
(о´∀`о)

ところで。

この「怖れ」について、コピペはしみじみ思います。
これは、とても私たち自身の手には負えません。

…って、ちょっと!!
それでは身も蓋もありゃしないぢゃないの~(涙)

いえいえ。

「怖れ」がアンタッチャブルだ、というのではありません。

「怖れ」とは、私たちが考える以上に手強いものです。
言葉を変えれば、根深いものです。

私たちが自分の手で見つけ出し、まして「十分味わって手離す」ことのできるほど、生易しく浅いものではない…
という意味です。

そして、「怖れ」は別に危険物ではないとも思います。

ただ、それは、非常に深いところに根を張っていて、通常の私たちの意識ではとらえることすらできないのです。

だからこそ、私たちは「怒る」のだと思います。

怖れを自覚できれば、「こわいよぉ」と表現できるのです。

それができないからこそ、怒りとして自覚され、表現されるのだと思います。

「怖れ」はあまりに深くて無自覚だけれど、それだけなのだと思います。
それ以上のものではないのです。

「怒る人は怖れている」
それだけ忘れずにいられれば、充分なのでしょう。

私たちも、怒るときは怖れています。
そして、私たち自身にも、その「怖れ」の姿は見えないのです。

自分自身の中にさえ自覚することのできないものを、他人の中に詮索するのは無意味ですよね。

あの人は怒っている。
じゃ、何を怖れているのだろうか?

…そんなふうに考え始めると、あっという間に他人の「領域」に入り込んでエネルギーを浪費することになります。

おそらく、「それは本当ですか?」を地道にくりかえし続けていると、いつかこの自分自身の中の根深い「怖れ」に出会うときがくるでしょう。

その「運命の出会い」(笑)は、私たちのほうから進んで追い求める必要はないと思います。

怒りを覚えたら、
「ああ、こんなとき、私は怖れているんだったっけ」
とだけ思い出して、あとはひたすら「それは、本当ですか?」を問い続ける。

きっと、それでよいのだと思います。